伊福部昭

简介: 小档案
出生名
伊福部 昭
出生

学歴
日本
北海道帝国大学(現:北海道大学)農学部林学実科卒業
出身地
日本・北海道釧路町
(現:釧路市)
死没
(満9 更多>

小档案
出生名
伊福部 昭
出生
1914年5月31日
学歴
日本
北海道帝国大学(現:北海道大学)農学部林学実科卒業
出身地
日本・北海道釧路町
(現:釧路市)
死没
2006年2月8日(満91歳没)
日本・東京都目黒区
ジャンル
クラシック音楽,映画音楽
職業
作曲家
東京音楽大学名誉教授
活動期間
1935年 - 2006年
伊福部 昭(いふくべ あきら、1914年(大正3年)5月31日 - 2006年(平成18年)2月8日)は、日本を代表する作曲家。ほぼ独学で作曲家となった。日本の音楽らしさを追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くのオーケストラ曲のほか、『ゴジラ』を初めとする映画音楽の作曲家として、また音楽教育者として知られる。
小简介
「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」を信条とし、「大楽必易 大礼必簡」(「すぐれた音楽は平易なもので、すぐれた礼節は簡略なものである」という意の司馬遷の言葉)を座右の銘としていた。また、伊福部家の家学は老子であり、これをはじめとして多くの中国古典に精通していた。
政治的スタンスについては、民族主義を標榜する点から右翼的と、逆に戦後反戦映画を多く手がけた点から左翼的と思われることがあったようだが、自ら明言することは無かった。2005年には、音楽家有志によって結成された「音楽・九条の会」の呼びかけ人として参加している。
自身は神道を信仰していたが、神道やそれ以外も含め宗教映画も多く手がけた(『日本誕生』、『釈迦』、『人間革命』等)。『続・人間革命』は降板させられたが、これは天理教の映画『扉はひらかれた』に参加したためだといわれている。自身は「八百万の神ということで誰をやってもいいんです」と語っている。
タバコ(銘柄はダンヒル・インターナショナル)をこよなく愛するヘビースモーカーで、インタビューの写真・映像では、大体片手にタバコを持っている。また若いころはかなりの酒豪だったが、それでも北海道の森林官のレベルで見ると強いとは言えないそうである。チョコレートなどの甘いものが好物で、仕事の際には机の引き出しに入れ、よく食べていたという。
蝶ネクタイを常用し、非常にダンディであったと関係者は口を揃える。時計は懐中時計を愛用していて、これは大学の講義でこの懐中時計を手に取ることで、学生に授業終了が近いことを示す合図に使えるからだそうである。
「怪獣に被せる音楽は抑え気味にしたほうがよい場合があるんですが、女優さんなんかで演技力がないと、それをカバーするために音楽の量を上げないといけないから大変です」と語っていた。1980年代後半に『題名のない音楽会』に出演した際も、司会を務める門下生の黛敏郎に、「先生は大変な毒舌家でございまして・・・」と紹介され、この番組の中でも、「演技者に被せる劇伴音楽のボルテージというものは、その俳優さんの演技力に反比例するもののようです」と、早速毒舌を披露していた。
大事件
デビュー以前
1914年(大正3年)、北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男としてうまれる。
1926年(昭和元年)、12歳。札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)入学。中学時代に後の音楽評論家三浦淳史と出会う。
1932年(昭和7年)、18歳。北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科に入学。文武会管絃学部のコンサートマスターとなる。ギター曲『JIN』作曲(現在楽譜の所在は不明)。独唱曲『平安朝の秋に寄せる三つの歌』作曲(現在楽譜の所在不明)。この頃後の作曲家早坂文雄と出会う。
1933年(昭和8年)、19歳。ギター曲『ノクチュルヌ』作曲(現在楽譜の所在不明)。三浦が文通していたスペイン在住の米国人ピアニスト、ジョージ・コープランドのために『ピアノ組曲』を書き上げる。これは、コープランドの「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」という旨の手紙に対して、三浦が「良い作曲家がいるので曲を送る」と返事を書いたことを受けて作曲したものであるが、後年、管弦楽版、箏曲版、弦楽オーケストラ版などを編曲するなど、ライフワーク的な作品となる。なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため手紙が途絶えたという。
1934年(昭和9年)、20歳。伊福部、三浦、早坂による「新音楽連盟」を結成。この三名と友人、伊福部の次兄勲らにより「国際現代音楽祭」を開催。
 
デビュー作・日本狂詩曲 
1935年(昭和10年)、21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る。
同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、ラヴェルに見てもらいたいという一心で、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールやアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった。
パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、
平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと
当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと
北海道の厚岸町から応募してきたこと
との理由から、相当の驚きと困惑があったと言う。とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という理由で、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた。
結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった。この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平とは新作曲派協会を結成することになる。同曲は翌1936年、セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演され、好評を得た。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、永遠に幻となった。なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている。
これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する。日本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。
 
戦前・戦中
1937年(昭和12年)、23歳、室内管弦楽曲『土俗的三連画』作曲。チェレプニンに献呈。
1938年(昭和13年)、24歳。以前書いた『ピアノ組曲』がヴェネツィア国際現代音楽祭入選。
この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった、北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。
1940年(昭和15年)、26歳。林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に勤務。紀元二千六百年記念祭にて『交響舞曲 越天楽』初演。
1941年(昭和16年)、27歳。勇崎アイと結婚。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』作曲。
1942年(昭和17年)、28歳。兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去。
1943年(昭和18年)、29歳。勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった。吹奏楽曲『古典風軍楽「吉志舞」』作曲。
1944、管弦楽曲『兵士の序楽』作曲。『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』(後に『フィリピンに贈る祝典序曲』に改題)作曲。『管絃楽のための音詩「寒帯林」』作曲。
1945年(昭和20年)、31歳。宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続け、放射線障害を負うことになった。この研究は「マッカーサー上陸後、数日後に禁止となった」と語っている。
 
戦後 
1946年(昭和21年)、32歳。職を失い、「途方に暮れていたところ」、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任。栃木県の日光・久次良に転居。独唱曲『ギリヤーク族の古き吟唱歌』作曲。
この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志、黛敏郎などから大変慕われた。特に前者の芥川は二回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。そのほかにも教育者として松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった。
1947年(昭和22年)、33歳。東京都世田谷区等々力町に転居。東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当。伊福部はこの作曲依頼について、「おそらく私が山林官で、山奥の生活を知っているだろうということであったのだろうと思っています」と語っている。
この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての主人公の心情を表した音楽を意図した事が認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。
バレエ曲『エゴザイダー』作曲。
1948年(昭和23年)、34歳。世田谷区多摩川奥沢町に転居。『ヴァイオリン協奏曲』(後に『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』と改題。また1951年の改訂により当初の三楽章編成のうち第二楽章を省かれる。改訂は1951年、1959年、1971年)。バレエ音楽『さ迷える群像』作曲。バレエ音楽『サロメ』作曲(1987年に演奏会用の管弦楽曲に、2002年に二十五絃箏甲乙奏合『七ツのヴェールの踊り』、2004年に二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ』へと編曲される)
1949年(昭和24年)、35歳。父、利三死去。独唱曲『サハリン島土蛮の三つの揺籃曲』(現在は土蛮は先住民と表記)作曲。バレエ音楽『子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品』作曲。バレエ音楽『憑かれたる城(バスカーナ』作曲。
1950年(昭和25年)、36歳。バレエ音楽『プロメテの火』作曲。
1951年(昭和26年)、37歳。世田谷区玉川尾山町(現尾山台)に転居。『音楽入門』(要書房)刊行。バレエ音楽『日本の太鼓「鹿踊り」』作曲(1984年に演奏会用に『日本の太鼓 ジャコモコ・ジャンコ』に編曲される)。
1952年(昭和27年)、38歳。『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』ジェノヴァ国際作曲コンクール入選。
1953年(昭和28年)、39歳。東京音楽学校の音楽科講師を退任。バレエ音楽『人間釈迦』作曲(1989年に演奏会用に編曲)。『管絃楽法』(音楽之友社)刊行(後の『管絃楽法』上下巻の上巻の増補部分を除く部分)。ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』芸術祭賞受賞。
1954年(昭和29年)、40歳。『ゴジラ』の音楽を担当。以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けた。
管弦楽曲『シンフォニア・タプカーラ』作曲(1979年に改訂)、三浦淳史に献呈。
1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。この時の教え子に宝田明や岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、映画の打ち上げ会や書籍などで語っている。
1956年(昭和31年)、42歳。『ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲』作曲。毎日映画コンクール音楽賞受賞。仮面舞踏劇『ファーシャン・ジャルボー』作曲。独奏曲『アイヌの叙事詩による対話体牧歌』作曲。
1958年(昭和33年)、44歳。合唱頌詩『オホーツクの海』作曲(1988年に独唱用に編曲)。
1960年(昭和35年)、46歳。独唱曲『シレトコ半島漁夫の歌』作曲。バレエ音楽『日本の太鼓「狐剱舞」』作曲。
1961年(昭和36年)、47歳。合唱曲『北海道賛歌』作曲。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ』作曲。
1965年(昭和40年)、51歳。母、キワ死去。
1967年(昭和42年)、53歳。ギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌』作曲(1990年に二十絃箏用に編曲)
1968年(昭和43年)、54歳。『管絃楽法』(音楽之友社)上巻増補改訂版と下巻刊行。
1969年(昭和44年)、55歳。ギター独奏曲『箜篌歌』作曲(1989年にハープ独奏曲、1997年に二十五絃箏曲に編曲)
1970年(昭和45年)、56歳。大阪万博のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を手がける。ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』作曲(1991年に二十五絃箏曲に編曲)
1972年(昭和47年)、58歳。吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』作曲(1983年に管弦楽曲『倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク』に編曲)。バレエ音楽『日本二十六聖人』作曲。
1973年(昭和48年)、59歳。邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』作曲。
1974年(昭和49年)、60歳。東京音楽大学作曲科教授就任。
1976年(昭和51年)、62歳。同大学長就任。マリンバ協奏曲『オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ』作曲。
1979年(昭和54年)、65歳。『ヴァイオリン協奏曲第二番』作曲。二十絃箏曲『物伝舞』作曲。
1980年(昭和55年)、66歳。リュート独奏曲『バロック・リュートのためのファンタジア』作曲(1993年に二十五絃箏曲『幻哥」へ編曲)。紫綬褒章受章。
1982年(昭和57年)、68歳。二十絃箏協奏曲『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』作曲。
1983年(昭和58年)、69歳。管弦楽曲『SF交響ファンタジー第一番、第二番、第三番』作曲。ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」開催。
1985年(昭和60年)、71歳。『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』作曲。東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。
1987年(昭和62年)、73歳。勲三等瑞宝章受賞。
1989年(平成元年)、75歳。バレエ音楽『人間釈迦』を『交響頌偈「釈迦」』に編曲。
1990年(平成2年)、76歳。管絃司判『鞆の音』作曲。
1992年(平成4年)、78歳。独唱曲『摩周湖』作曲。
1993年(平成5年)、79歳。交響的音画『釧路湿原』作曲。
1994年(平成6年)、80歳。独唱曲『因幡万葉の歌五首』作曲。
1996年(平成8年)、82歳。日本文化デザイン賞大賞受賞。
1997年(平成9年)、83歳。二十五絃箏曲『胡哦』作曲。
1999年(平成11年)、85歳。二十五絃箏曲『琵琶行』作曲。
2000年(平成12年)、86歳。独唱曲『蒼鷺』作曲。独唱曲『聖なる泉』作曲。妻・アイ死去。
2003年(平成15年)、89歳。チェンバロ独奏曲『小ロマンス』作曲。文化功労者顕彰。
2006年(平成18年)、2月8日死去。享年91。
2008年(平成20年)、『完本 管絃楽法』(音楽之友社)刊行。
 
晩年 
晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、年を重ねてからも大作を書く筆は衰えなかった。この時期の改作としては、野坂惠子が開発した二十絃箏や二十五絃箏など箏の改良楽器およびその合奏のための作品が多い。1997年(平成9年)にそれまで戦時中失われたとされていた『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』の楽譜がNHKの資料倉庫から発見されるなど、晩年になってから多数の初期作品が蘇演される幸運にも恵まれた。
2006年(平成18年)、前年頃から体調を崩し始め、1月19日に腸閉塞のため入院。2月8日、多臓器不全のため東京都目黒区の病院で死去。91歳没。葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。
遺作は結果として、2004年(平成16年)初演の二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ ― バレエ・サロメに依る』である。しかし、『土俗的三連画』のピアノリダクション版、並びに野坂恵子に献呈する予定だった二十五絃箏曲『ラプソディア・シャアンルルー』は、病床において構想の段階を過ぎて、書き始める直前であったと言う。
 
栄典 
1980年(昭和55年)、紫綬褒章。
1987年(昭和62年)、勲三等瑞宝章。
1996年(平成8年)、日本文化デザイン大賞。
2003年(平成15年)、文化功労者。
2006年(平成18年)、第48回日本レコード大賞特別功労賞。
2006年(平成18年)、叙従四位、授銀杯一組。
2007年(平成19年)、第30回日本アカデミー賞会長特別賞。

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