吉永小百合

简介: 小档案
吉永 小百合(よしなが さゆり、本名:岡田小百合(おかだ さゆり)、 - )は、東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身の女優である。そのファンは、「サユリスト」と呼ばれる。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを出している。身長157cm。
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小档案
吉永 小百合(よしなが さゆり、本名:岡田小百合(おかだ さゆり)、1945年3月13日 - )は、東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身の女優である。そのファンは、「サユリスト」と呼ばれる。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを出している。身長157cm。
小简介
父の吉永芳之は、九州耐火煉瓦、外務省嘱託をへて、出版社「シネ・ロマンス社」を経営。飯島正、双葉十三郎らと映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行するも、事業に失敗している。
母方の祖父は、英文出版社の大観社社長の川田友之。叔母に『婦人画報』編集長、「アムネスティ・インターナショナル日本支部」の創設メンバーであった川田泰代がいる。
「日活の看板女優」として、浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。従来の男性アクション映画路線がマンネリ化していた当時の日活にとって、吉永・浜田コンビの純愛&青春映画路線は、新たな日活映画ファンの獲得と支持を集めた。特に、『キューポラのある街』、ベストセラーを映画化した『愛と死をみつめて』などは話題となった。
ブロマイドが爆発的に売れ、1964年(昭和39年)、1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)と、年間売上実績で女性部門1位に輝いた。当時、吉永はまだ高校生。彼女と共に青春時代を歩んだ世代に「サユリスト」と呼ばれるファンが多い。有名人ではタモリ、野坂昭如らが有名である。
吉永主演映画の原作者でもある川端康成、石坂洋次郎といった大作家にも非常に気に入られ、川端は吉永に会いたいために山奥の伊豆の踊子のロケ現場を突然訪ね、石坂は吉永が演じることを想定して作品を書いた。
日本映画の衰退期と重なったこともあるが、結婚相手が15歳も年上の業界関係者で役柄のイメージに合わず、結婚に反対する両親との仲違いも報道されたりもした。当時の邦画界には、ヌードも辞さず大胆に現代女性を演じる若手女優が多数登場しており、吉永が1960年代に演じ続けた「清純なお嬢さん」像は類型的で古臭い印象になってしまっていた。子役出身の俳優にしばしば見られるように、娘役から大人の女性への脱皮がスムーズに行かなかったとも言える。1975年(昭和50年)、『青春の門』で初めて「清純なお嬢さん」を脱する演技を披露した。
デビュー時代以外はテレビドラマには縁の無い印象であるが、映画出演の減り始めた時期に、東芝日曜劇場やNHK大河ドラマにも出演している。1981年(昭和56年)の『夢千代日記』(NHK)では、大人の女性としての情感を豊かに表現して話題となる。この時期から、評論家に演技力に難をつけられながらも、大女優の風格をもつ女優という評価を受け始めた。「サユリスト」復権も同時期であり、邦画冬の時代にも定期的に出演作が製作され現在に至る。
広島を舞台にした『愛と死の記録』の出演や、『夢千代日記』(NHK)で原爆症に苦しむ主人公を演じたことをきっかけに、1986年(昭和61年)からボランティアで原爆詩の朗読会をスタートさせている。現在では女優としての活動のほか、反戦・反核運動をライフワークとしている。
最近のテレビ出演はほぼCMのみであり、映画中心に活動している。
確定申告手続で各社の取材を受けた際、同席していた当時の大蔵大臣に「この税金は戦闘機を買う費用に使ったりせず、もっと国民のためになることに使って欲しい」と釘を刺した。
西武ライオンズと早稲田大学ラグビー部のファンとして有名である。前者については、1996年オフの清原和博の読売ジャイアンツ移籍について、「あの時(1987年の対ジャイアンツ戦で日本一を決めた、日本シリーズ第6戦のこと)の涙は何だったの」とコメントしていた。この結果、清原ファンをやめている(西武ファンは継続)。また、清原も吉永のファンである。
夫から教わった将棋も趣味の一つとしており、将棋棋士の大内延介と交遊があった。また、1976年の「将棋会館」建設にあたって多額の寄付をしている。
『吉永小百合 街ものがたり』(TBSラジオ)の中で、鉄道ファンであることも告白した。
2005年、西武鉄道グループ(西武ライオンズを含む)の当時のオーナーであり、吉永のファンでもあった堤義明から軽井沢の別荘を格安で買ったと報じられた(週刊文春2005年3月10日号)。吉永は「通常の売買契約に基づき行っております」と弁明している。
健康維持の為、水泳を永年続けており常に水着を持参しプールがあればどこでも泳いでいる。
大事件
1957年(昭和32年) - 渋谷区立西原小学校6年生の時、ラジオ東京(現 TBSラジオ)の連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』でデビュー。10月、ラジオ東京制作のテレビドラマ『赤胴鈴之助』でテレビデビュー。
1959年(昭和34年) - 『朝を呼ぶ口笛』で映画デビュー。
1960年(昭和35年) - 渋谷区立代々木中学校卒業、東京都立駒場高等学校入学。
1961年(昭和36年) - 精華学園女子高等学校(現 東海大学付属望洋高等学校)転入学。
1962年(昭和37年) - 高校在学中、『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)にヒロイン役で出演。ビクターから『寒い朝』でレコードデビューし20万枚のヒット。橋幸夫とデュエットし30万枚の大ヒットとなった『いつでも夢を』で「第4回日本レコード大賞」受賞。この頃から日活の清純派女優として浜田光夫とコンビを組む。同年3月31日からイタリアのミラノで開かれた「ミラノ国際見本市」の中で、4月15日から4月19日まで開催された『ミラノ日本映画見本市』のため、4月10日、清水雅(東宝社長)を団長として、川喜多長政、奥山融、そして、他の映画会社各社代表女優の佐久間良子(東映)、星由里子(東宝)らと共に日活代表女優としてイタリアへ出発。岸惠子が日本からではなく現地参加でミラノで合流している。4月25日、帰国。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なヨーロッパ訪問となった。帰国時の写真が現存する。
1965年(昭和40年) - 大学入学資格検定に全科目合格は出来なかったが早稲田大学に高卒と同等以上の学力があると認められ第二文学部史学科西洋史専修に入学(俳優業多忙の為、精華学園女子は中退していた)。
1969年(昭和44年) - 多忙な中、早稲田大学第二文学部史学科を正規の4年間、しかも次席で卒業。
1973年(昭和48年) - フジテレビの岡田太郎ディレクター(のち、共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任)と結婚。15歳差だった。
1985年(昭和60年) - 『おはん』、『天国の駅』の演技で、「日本アカデミー賞最優秀主演女優賞」初受賞。以降、1989年(平成元年)、2001年(平成13年)、2006年(平成18年)と、最優秀主演女優賞を計4度受賞している。
1988年(昭和63年) - 『つる-鶴-』(市川崑監督)に主演し、映画出演は通算100作品となる。
1997年(平成9年) - 朗読CD『第二楽章』で「第39回日本レコード大賞企画賞」受賞。
2002年(平成14年) - 平和記念資料館(広島市)に導入された音声ガイドのナレーションをボランティアで担当。
2003年(平成15年) - 上記ナレーションや、同じくボランティアである原爆詩の朗読などの平和活動が評価され、「第15回谷本清平和賞」受賞。
2005年(平成17年) - 第56回NHK紅白歌合戦では、山梨県からの中継で原爆詩を朗読した。
2006年(平成18年) - 紫綬褒章、受章
2008年(平成20年) - 2月に主演映画『母べえ』がベルリン国際映画祭出品のためベルリンへ往く。