樋口康雄

简介: 小档案
樋口 康雄(ひぐち やすお、 - )は、東京都生まれの作曲家。
小简介
両親にはなかなか子供が授からず、養子をもらおうと本気で考え始めていた時に生まれた。その時、母親は33歳で、女性の厄年の歳に生まれた子はラッキー・ボーンだという外国の風習を 更多>

小档案
樋口 康雄(ひぐち やすお、1952年10月13日 - )は、東京都生まれの作曲家。
小简介
両親にはなかなか子供が授からず、養子をもらおうと本気で考え始めていた時に生まれた。その時、母親は33歳で、女性の厄年の歳に生まれた子はラッキー・ボーンだという外国の風習を鑑み、海外のプレス向けのプロフィールの最初には、そのことが明記されている。
幼少時よりバイオリンやピアノを嗜む父の影響で音楽に親しむ。ちなみに、父以外の親族で音楽を嗜むのは母方の祖母で、琵琶の師範をしていた。ピアノは3歳時より先生について正式に始めたが、両親に康雄を音楽の専門家にしようと英才教育を施すつもりはなく、小学校3年生からはボーイスカウトの活動にも参加した。天分として絶対音感が備わっており、小さな頃から一度聴いた音楽は再現でき、幼稚園のお遊戯の時間に、先生の代わりにオルガンを代弾きしたこともあった。小学校時代からピアノ曲やアンサンブルの作曲を始め、中学時代よりピアニスト、アレンジャーとして活躍する。麻布中学在学時には、ビートルズに傾倒、コピーバンドを結成し、文化祭で演奏を披露したこともあった。当時から早くもその才能を開花させ、ピアノのインプロヴィゼーション(即興演奏)では、その地域では名の知れた存在であった。学校の近くにあったMRA(Moral Rearmament 道徳再武装)のバンドでピアノのエキストラを経て、NHKのチーフ・ディレクター末盛憲彦(代表的な番組は『夢であいましょう』)に見出され、高校在学中に『ステージ101』でボーカル・インストゥルメンタルグループ、シングアウトのメンバーとしてデビュー。その際、番組の音楽監督をしていた中村八大のテクニックを盗みながらアレンジやオーケストレーションを学ぶ。その後、同番組の音楽スタッフとなり、作曲家としてのキャリアをスタートさせる。
ラジオやテレビなどの出演を経て、1971年12月、日本人として初めて米国MCAとポピュラー音楽のアレンジャーとして専属作家契約を交わす。しかし、樋口は、自身の日本人としてのアイデンティティーを尊重したいと、外国での活動は控えめにするようにしていた。上智大学進学後は、学内では音楽には一切関わらず、学業に専念していたが、在学中より『レッツゴーヤング』の音楽をはじめとして、レコード、テレビドラマ、映画、舞台、CM音楽の仕事が増え、クラシックのスコアの書ける数少ない若手作曲家として業界で注目を集める。 しかし、MCAとの契約直後より再度クラシック音楽も手がけたいとの思いを募らせ、1976年頃よりテレビドラマなどの仕事と並行して弦楽四重奏曲やピアノ協奏曲といった純器楽曲をコツコツ書き溜めるようになった。1978年、MCAの契約終了に伴い独立。1979年にはワーナーパイオニアから管弦楽作品『オリエンテーション』とジャズアルバム『ニューヨーク・カット』を同時リリースした。
1976年以降、クラシック楽曲の発表の機会を得たいと思っていた矢先、ニューヨーク・フィルハーモニア室内管弦楽団の責任者と出会い、新作の委嘱を受ける。1979年7月には、ニューヨーク・フィルハーモニア室内管弦楽団の特別演奏会がニューヨークと東京で開催され、樋口の新作が披露されたが、その時、東京で初演されたヴァイオリン協奏曲“KOMA”をたまたま聴きに来ていた手塚治虫が気に入り、アニメ映画『火の鳥2772』の音楽を依頼。ヴァイオリン協奏曲“KOMA”も使われた。これを機に、以後、樋口は『小公女セーラ』や『機動新世紀ガンダムX』といったアニメ音楽の分野にも活動の場を広げる。なお、『ママは小学4年生』の音楽も樋口が担当したと誤記されることもしばしばだが、実際には、オープニング・テーマとエンディング・テーマの作曲とアレンジを担当しただけである。
付随音楽を主とするが、純音楽からポピュラー音楽まで活動範囲は多岐に渡り、これまでに楽曲、プロデュースを手がけたアーティストは多数。2003年に鉄腕アトムの生誕を記念して製作されたアルバム『MUSIC FOR ATOM AGE』を発表。近作は富野由悠季監督作品『リーンの翼』(2006年)。
現在、NHKで放送中の10分間番組、「あの人に会いたい」テーマ音楽を担当。

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