小林亜星

简介: 小档案
小林 亜星(こばやし あせい、 - )は、東京都杉並区出身の日本の作曲家である。そのほかに作詞家、俳優、タレント、幾つかのCMソングや楽曲では歌手して歌うと言う幾つもの顔も併せ持つ、多彩な才能の持ち主である。一般に知られている名前の漢字表記は「亜星」だが、本人は 更多>

小档案
小林 亜星(こばやし あせい、1932年8月11日 - )は、東京都杉並区出身の日本の作曲家である。そのほかに作詞家、俳優、タレント、幾つかのCMソングや楽曲では歌手して歌うと言う幾つもの顔も併せ持つ、多彩な才能の持ち主である。一般に知られている名前の漢字表記は「亜星」だが、本人は「亞星」と書くようである。母の尊敬する演出家の息子の名前をとって「亜星」と付けられた(NHK『わたしが子どもだったころ』より)。
旧制慶應普通部から慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学医学部入学、経済学部に転部して卒業。作曲を服部正に師事した。現在アストロミュージック所属。J-scat(日本作詞作曲家協会)理事。大日本肥満者連盟(大ピ連)初代会長を務めた。CMソングやテレビ主題歌にヒット曲、ロングランの曲が非常に多く、そのメロディに日本人の多くが馴染んでいるという点では右に出るもののない存在である。
妹はイラストレーターの川村みづえ、次男は『太陽戦隊サンバルカン』のバルパンサー/豹朝夫役で知られる元俳優で、「国語の神様」の異名を取る学習塾講師・小林朝夫である。
小简介
祖父は医者、父は役人という家系に生まれた。子供時代に戦争のため長野県小諸市に疎開した経験を持つ。後に疎開の子供たちの悲惨さをテレビ番組で語り、涙を誘ったこともある。
医学部に入学したものの医者になりたくはなく、音楽サークル活動に熱中した事で親に断りなく転部した。卒業時には親の知るところとなり勘当された。
その後会社に就職したが二週間で辞め、服部正の門を叩いた。当初は服部に「音楽大学出身者以外の弟子は取らない」と断られたが、自作曲を録音したカセットテープと連絡先を書いたメモを郵便受けに置いて帰った所、数日後に電話で入門を認められた。当時は”ガリガリ”に痩せていたという。
出世作のレナウンのコマーシャルソング『ワンサカ娘』(歌:弘田三枝子)は、当時レナウンのデザイナーであった実妹の紹介で実現したという。これ以後、CMソングの作曲数では先輩の三木鶏郎に及ばないものの、CMソングを中心とした作曲活動を展開するようになった。
向田邦子の代表作であるテレビドラマ『寺内貫太郎一家』が俳優デビューとなり、「すぐ、ちゃぶ台をひっくりかえすような」頑固な親父「寺内貫太郎」役で、大きな印象を残している。起用前の風貌は長髪でサングラスをかけており、原作者の向田は自身の父親をモデルにした寺内貫太郎像とはほど遠く、起用に難色を示したという。しかしプロデューサーの久世光彦の発案で髪を坊主頭にし、黒い丸縁めがね、印半纏等を身に着けた小林を向田にひき会わせた所、納得して起用が決まった経緯がある。
日本音楽著作権協会の一部理事たちによる公金不正流用事件を機に、有志会員が小林亜星、永六輔、野坂昭如を中心に結束し、協会を監視是正するオンブズマン的団体J-scat(日本作詞作曲家協会)を組織した。この団体の活動資金を捻出するために、1996年の暮れから3人で世直しトリオとして「歌入りトークショー」を開始した。
服部克久作曲の『記念樹』が小林の作曲した『どこまでも行こう』を剽窃しているとして小林が訴えて裁判になった(記念樹事件)。司法では最終的に小林の主張が認められた。
2009年5月には懇意のヴァイオリニスト、天満敦子とのコラボレーションを集大成したアルバム『ロマンティックをもう一度』が発売された。

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