渡辺はま子

简介:  小档案
渡辺 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。神奈川県横浜市出身。本名 加藤 浜子。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。
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 小档案
渡辺 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。神奈川県横浜市出身。本名 加藤 浜子。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。
小简介
 
横浜生まれで横浜育ちの、文字通りハマっ子の渡辺は美貌で知られた歌手であった。祖父がアメリカ人のクォーターであった。
 
大事件
 
デビューからビクター移籍
 
1933年(昭和8年)「武蔵野音楽学校」(後の武蔵野音楽大学)卒業。卒業後は、横浜高等女学校(後の横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたが、同年にポリドールの歌手テストを受け、「最上川小唄」を吹き込むが発売されなかった。ポリドールでは結局この1曲のみ。音楽学校在学中に指導を受けた徳山璉の推薦もあり、同年12月にビクターから「海鳴る空」でデビューした。
1934年(昭和9年)、日比谷公会堂で開催されるビクター歌手総出演のアトラクション「島の娘」に主演のはずであった小林千代子が突然失踪する。急遽 渡辺が代役に抜擢され、漁師の娘を好演。以降ビクター在籍中はアトラクションに度々出演し、藤山一郎や古川ロッパらの相手役を務めている。
同年のPCL映画「百万人の合唱」に出演するために勤務先の横浜高女を休んだことが問題になり、保護者らが学校に抗議。これが新聞沙汰となる。1935年(昭和10年)の秋には教職を辞し、渡辺はビクターの流行歌手に専念することとなる。同年、夏川静枝の朗読によるハンセン病患者に取材した放送劇「小島の春」のラジオ主題歌「ひとり静」を歌い、初のヒット曲となる。この曲をきっかけに、渡辺は終生を通じ、ハンセン病患者の病院の慰問を続けた。特に岡山愛生園では、療養所歌として今も愛唱されている。
  
「ネエ小唄」騒動
1936年(昭和11年)、「忘れちゃいやヨ」をレコーディング。作曲者の細田義勝に歌中の「ネエ」の部分の歌い方を何度も指導され、本人は辟易して歌ったが、その直後に早稲田大学野球部の応援歌の発表会に招かれ歌ったところ、観客に大受けしたため、渡辺自身もヒットする予感がしたという。ヒットの兆しが見えた発売から3ヵ月後、政府の内務省から『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』とステージでの上演禁止とレコードの発売を禁止する統制指令が下る。
ヒットを惜しんだビクターは、改訂版として「月が鏡であったなら」とタイトルを変更し歌詞の一部分を削除してレコードを発売、大人気を得る。しかし、このヒットによりこの種の曲『ネエ小唄』ブームが起こり、「ああそれなのに」「ふんなのないわ」「憎いわね」などの類似曲を続々と生み出す結果となる。この状況を憂えた軍部が主導になり、日本における流行歌を浄化する目的として「国民歌謡」を誕生させるキッカケとなる。渡辺も続いて、「とんがらかっちゃ駄目よ」をヒットさせるが、ビクターの内紛と一連のネエ小唄騒動で、1年間の休業をすることになった。
  
コロムビア移籍
1937年(昭和12年)4月、コロムビアに移籍。翌年、皮肉にも流行歌の浄化を統制された国民歌謡の「愛国の花」が、渡辺にとっての移籍後のヒット曲第一号となる。この頃から、戦時下の上海など戦地への慰問も積極的に行うようになり、「シナの夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目が徐々に増え、人々からは『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持された。そのため、慰問先の満州から松平晃が持ち帰った「何日君再来」(訳詞長田恒雄)も渡辺が唄い、レコードが日本で発売されることになった。
さらに、当時はテイチクの専属であった満州の大陸女優、李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌をコロムビアから国内で日本語で発売する際には、渡辺がレコーディングした。「いとしあの星」「蘇州夜曲」といった曲は渡辺、李両者の持ち歌として大ヒットを記録している。
1941年(昭和16年)、渡辺が新聞に掲載された記事に感動し、是非とも歌謡曲としてレコード化したいと台湾総督府に申し入れ、レコード・リリースした「サヨンの鐘」もヒット。その後も「風は海から」「花白蘭の歌」など、日本のトップ歌手して活躍。スクリーンにおいても既に1937年(昭和12年)に新興映画「庭の千草」に主演していた他、東宝映画「ロッパ歌の都に行く」「ロッパの新婚旅行」「エノケンの孫悟空」などに出演している。特に「ロッパの新婚旅行」では、声楽家役として出演し、クラシックの歌曲を原語で高らかに歌い上げているのは、元音楽教師の面目躍如であった。
  
戦後
戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされる。が、その間も渡辺はま子は、日本人捕虜仲間を美しい歌声で慰めることを忘れなかった。日本へ帰国後、外地から引き揚げてきた兄とようやく再会する事ができるが、不慮の病に失う不幸に見舞われた。
1947年(昭和22年)に結婚し、歌手活動の傍ら横浜で花屋を営みながら、「雨のオランダ坂」「東京の夜」といったヒット曲を飛ばし続けた。
1950年(昭和25年)、敗戦後初めての日本人の芸能使節団として、小唄勝太郎、三味線けい子らと共に、祖父の眠るアメリカ各地を公演。帰国後は、古巣のビクターに移籍し、「火の鳥」「桑港のチャイナタウン」など後に代表曲となるヒット曲を出す。
1952年(昭和27年)、NHKラジオ番組「陽気な喫茶店」を司会していた松井翠声の元に送られてきた、フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「ああモンテンルパの夜は更けて」を渡辺が改めてレコード化。日本政府の復員局と渡辺の奔走でモンテンルパの収容所へ慰問コンサートが実現。フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの首長であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したことは、渡辺はま子の歌手人生におけるハイライトといえる。
1951年(昭和26年)、の第1回紅白では、紅組のトリを務めた。昭和40年代には、東海林太郎らとともに歌手協会の発展に尽力し、1973年(昭和48年)には紫綬褒章を受章。暮れには、同年に受章した藤山一郎とともに紅白歌合戦に特別出演し、「桑港のチャイナタウン」を熱唱している。渡辺は、これらを含めてNHK紅白歌合戦に計8回出場している。
 
晩年 
1981年(昭和56年)、勲四等宝冠章を受章。テレビやラジオになお活躍を続けたが、1985年(昭和60年)におしどり夫婦として知られた渡辺の夫が亡くなったショックもあり、この頃から認知症を発症、1988年(昭和63年)にテレビ東京の番組「年忘れにっぽんの歌」で生放送中に歌詞を忘れてしまったアクシデントをきっかけとし、1989年(平成元年)に引退。ただし、引退を決意する以前にオファーがあったステージ等は引退後も約束通りこなし、翌1990年(平成2年)6月19日には水戸市の県民文化センターでの、地元銀行主催〝年金受給者の集い〟に特別出演し、好評を博している。
引退後は認知症の進行及び脳梗塞に倒れたこともあり、家族以外の者との会話がほぼ困難になり(最後に第三者と会話が成立したのは、1993年(平成5年)の藤山一郎没後に藤山未亡人へお悔やみの電話をした時と長女は語っている)、最晩年は寝たきりの生活であった。亡くなる5日前の1999年(平成11年)のクリスマスの日、長女が渡辺にモンテンルパ慰問の際に録音したテープを聞かせると、普段は病気のため表情を変えることのなかった渡辺が長女の言葉に何度も頷き、一筋の涙を流したという。死後は遺言に従い親族だけで密葬を済ませ、2000年(平成12年)1月、かつての所属会社であるビクターから、正式にその訃報が明らかにされた。

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