三波春夫

简介: 小档案
三波 春夫(みなみ はるお、 - 、本名・北詰文司(きたづめ ぶんじ))は、新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身の大衆歌謡の歌手。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。
小简介
元浪曲師であり、浪曲に題材を取った歌謡浪曲を得 更多>

小档案
三波 春夫(みなみ はるお、1923年7月19日 - 2001年4月14日、本名・北詰文司(きたづめ ぶんじ))は、新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身の大衆歌謡の歌手。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。
小简介
元浪曲師であり、浪曲に題材を取った歌謡浪曲を得意とした。特に「元禄名槍譜 俵星玄蕃」に代表される長編歌謡浪曲は、三波にしかできない芸当と評される事が多い。
いつも朗らかな笑顔を絶やすことがなかった。ファンサービス精神旺盛で、「お客様は神様です」の名言は有名。男性歌手としては初めてステージの衣装に着物を使用した。和服で歌う初めての男性歌手といわれている。
同じ浪曲出身の村田英雄はライバルと位置付けられ、様々なエピソードが生まれた。タレント・俳優・歌手として活躍する三波豊和は長男。前立腺癌予防のための早期受診を呼びかける「三波春夫PSAネットワーク」設立者で前代表・八島美夕紀は長女。
是日本近现代邦乐界、歌谣浪曲界的顶级艺人之一,据说生前保持着红白对抗的出场纪录。
  他的音色醇正,演唱技巧更是炉火纯青,其歌谣、音头作品具有很浓郁的民俗风情。
  而他最著名的作品,
  当属64年东京奥运会的主题歌《东京五轮音头》,
  和70年大阪万国世博会的主题歌《世界の国からこんにちは》。
  可以说这两曲一举奠定了三波春夫歌谣浪曲界第一人的地位(尽管之前他已经是当红艺人)。
  而说到浪曲这种形式,是既有点像评弹又有点像京韵大鼓的曲艺。
  也可能是东亚古典艺能——“说唱”的一种近现代变体。
  通常浪曲都是既说又唱,一幕续一幕的鸿篇巨构,这里的只是一些选段。
  例如《神戸を拓く清盛》,就是选自三波春夫晚年的力作,号称构想十年、制作六年的《平家物语》长篇浪曲集子。
  三波春夫在2001年去世。
  有人说为了纪念这位传奇巨星,浦泽直树把他画进了《20世纪少年》。
大事件
1939年、16歳の時に浪曲師・南條 文若(なんじょう ふみわか)としてデビュー。1944年に陸軍入隊し、満州に渡る。敗戦を満州で迎える。
敗戦後ハバロフスクの捕虜収容所に送られ、その後約4年間のシベリア抑留生活を過ごす。帰国直後は共産主義に洗脳されていたと述べている。[1]三波は、「国際法を無視し、捕虜の人権を蹂躙した国家的犯罪。更にソ連は謝罪も賠償も全くしていない」と非難していた。後に日本を守る国民会議(現・日本会議)の代表委員となるなど、反共主義運動を展開。
1949年9月、帰国。浪曲師として復帰し、活躍した。1957年6月、芸名を「三波春夫」と改めて歌謡界へデビュー。
1958年、第9回NHK紅白歌合戦に初出場。1960年からは歌手としては初の1か月公演を行う。神戸芸能社の傘下で仕事をした。
日本万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」を歌ったことで1970年、リベリアで発行された日本万国博覧会を記念した切手に登場した。日本の芸能人が海外の切手に登場したのはこれが初めてのことであった。
その間、三波春夫名義で『おまんた囃子』の作詞作曲を手掛けて1975年に発表、また北村桃児(きたむら・とうじ)の筆名を用いて『元禄名槍譜 俵星玄蕃』等の長編歌謡浪曲を発表するなど、一歌手に留まらぬ精力的な創作活動を展開している。
1986年の第37回NHK紅白歌合戦に、白組歌手として当時最多記録の29年連続29回目の出場を果たす。しかし翌1987年の第38回NHK紅白歌合戦へは、紅組歌手の最多出場者だった島倉千代子と共に、出場辞退を宣言した。その3年後、1989年の第40回NHK紅白歌合戦には、3年ぶり30回目の復帰出場(第一部・「昭和の紅白」コーナー出演。披露曲は「東京五輪音頭」)となる。
1992年、シングル『ハウスおまんた囃子』でハウス・サウンドを導入。"HARUO IN DANCE BEAT"なるライヴ・イヴェントでは電気グルーヴと共演。シングル『ジャン・ナイト・じゃん』(フジテレビ系深夜アニメ『スーパーヅガン』ED曲)ではラップにも挑戦して話題となるなど、ジャンルに囚われない精力的な音楽活動を展開した。この『ジャン・ナイト・じゃん』ではで若年層にもファンが拡大し、演歌歌手ながらジュリアナ東京でもライブを開催した。
1994年1月に前立腺癌と診断された。この時、三波はたじろぎもせずに「仕事をしながら病気と闘っていきましょう」と家族に語ったという。これ以後、三波は長編浪曲『平家物語』の制作や永六輔作詞の『明日咲くつぼみに』を歌い、また富士山をテーマにした曲を新潟出身のソングライターである新井満に依頼するなど、精力的に新境地を開く音楽活動を続けて行った。
芸能界きっての読書家として知られ、更に日本史に造詣が深かった三波は長年に亘る自らの研究を基にした歴史関係の文筆・著作活動も積極的に行い、また自らのシベリア抑留体験も語るようになった。
1999年12月31日、第50回NHK紅白歌合戦へ10年ぶり31回目の出場を果たすが、この回が生涯最後の紅白出演となった。この時歌った『元禄名槍譜 俵星玄蕃』は、60年にも及ぶ三波春夫の歌芸の集大成とも言われる。
2001年4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去、77歳没。娘・美夕紀が翌年12月に早期発見の為の前立腺特異抗原(PSA)検査受診を呼びかける「三波春夫PSAネットワーク」を立ち上げる契機になる。
亡くなる半年程前の2000年11月に故郷の越路町の町制記念イベントで舞台に立ち、渾身の力を振り絞って歌声を披露した。これが現役歌手としての最後の舞台となった。
辞世の句と受け取れる「逝く空に桜の花があれば佳し」という句を残している。
戒名は「大乗院法音謡導日春居士」。墓所は東京都杉並区の妙法寺。
三波の死後、出身地の新潟県から「新潟県民栄誉賞」が贈られた(授与式は2001年4月29日、新潟スタジアム杮落としイベントに合わせて行われた)。
生前に発表した楽曲数は1,058曲、シングル盤の総売上は2,510万枚を記録した。