简介:
淳君(-),日本大阪府东大阪市人,为音乐制作人、歌手、作词家、作曲家,也有进行演艺活动。近畿大学附属高等学校、近畿大学商经学部毕业。“Tsunku”这名字的由来,是因为被朋友称呼为“Tsunkun”。
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淳君(1968年10月29日-),日本大阪府东大阪市人,为音乐制作人、歌手、作词家、作曲家,也有进行演艺活动。近畿大学附属高等学校、近畿大学商经学部毕业。“Tsunku”这名字的由来,是因为被朋友称呼为“Tsunkun”。
个人简历
淳君自1998年起即着手多组艺人的唱片制作,更成功打造出早安少女组。、安倍夏美、中泽裕子、后藤真希、松浦亚弥、 Seven House、近期的Berryz工房、℃-ute还有多队的女子组合及其他艺人等等多不胜数,成为90年代末日本最受注目的音乐制作人,甚至与小室哲哉齐名。
在1999年淳君,也以“Touch Me”专辑开始个人的专辑制作。其余的工作包括出演演唱会和电视电影等各方面的演出。在电影“シャ乱Qの演歌花道”中更荣获日本的“Academy”新人奖,此外,处女著作“Love論 -あなたのいいトコ 探します-”也创下了50万本的销售纪录。
淳君于2006年4月24日,宣布与出光加奈子的婚约。在6月8日注册、同年8月10日、在西本愿寺举行了结婚典礼。
射乱Q
射乱Q (Sharam Q) 由主唱淳君、吉他手Hatake、键盘手Taisei、以及鼓手Makoto于1988年所组成,是来自大阪的华丽摇滚之龙头老大乐队。
1991年参加第二届《BS Young Battle》新进乐队大赛荣获冠军后,其在歌坛上的表现愈近佳境,畅销单曲专辑不断,接拍多之广告与电影作品《射乱Q之演歌花道》,更多次获得日本有线电视放送大赏、最佳作品大赏之殊荣,几近全方位的演艺生涯,近年以音乐制作公司为发展重心的他们,成功打造早安少女组等多位知名艺人,射乱Q在乐坛上更独占一席之地。
自2000年12月后,虽已处于休息状态,但在历经十二个年头后,不论是个人或乐队在乐坛上之成就更为人津津乐道,其所创下数百场演唱会记录及排行榜佳绩,更为他们的实力留下铁证。
小档案
つんく(またはつんく♂ 、1968年10月29日 - )は、大阪府東大阪市出身の日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、実業家。本名:寺田 光男(てらだ みつお)。血液型はB型。
シャ乱Qのボーカルで、総合エンターテインメント事務所TNX(ティーエネックス)株式会社代表取締役社長。公式サイトには、「音楽家、総合エンターテインメントプロデューサー」と書かれている。
近畿大学附属高等学校、近畿大学商経学部卒業。
小简介
モーニング娘。をはじめ、プロデュースする歌手をアイドル扱いされる事を嫌い、本格派のヴォーカルダンスグループをプロデュースしていると自信を持って自負する拘りがある。また、これに関した事で、アイドルとは周りが評価するものであり、自身をアイドルと思い誤った認識を持つ者がオーディションを受けに来ても絶対に採用しないと語っている。
実家は乾物屋。大卒後、金融機関に内定していたが2年間という条件で音楽活動を始めた。
「つんく」という芸名は、小さいときに「つんくん」と呼ばれていたことから[1]とされていたが、2008年、NHKのスタジオパークからこんにちはにて、「本当の由来は、大学時代にある友人から付けられたことから」と発言した。
浄土真宗本願寺派の門徒でもある。
モモコクラブのファンで、中でも菊池桃子に関しては当時の写真集を未だに大事に持っていたり、イベントや握手会に迄行く程の大ファンだった。
モーニング娘。のプロデューサーとしての活動を始める時に「バンド活動の経験を活かして、プロデューサー業に進出したくなった」と言っていた。
幼少時代からかなりのお笑い好きで、人生で最初に購入したレコードはザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」であることを公言している。
かつてとんねるずのラジオ番組などで「ハガキ職人」をしていたことがある[2]。
音楽評論家であった福田一郎と親交があり、モーニング娘。のプロデューサーになる事が決まった時に、プエルトリコのアイドルグループ「メヌード」を参考にする様にアドバイスされたという。
元大阪近鉄バファローズのファンであり、子供のころはバファローズ友の会会員であった。その縁もあり1997年4月8日大阪ドーム初の公式戦(近鉄×ロッテ)の始球式をつとめた(後に東北楽天ゴールデンイーグルスの公式応援歌をプロデュースしている)。
1995年12月21日に放送されたダウンタウンDXDX(読売テレビ放送)に当時のシャ乱Qメンバー5人で解答者として出演した際、ビッグスターイメージレース“流行に敏感なコギャルに聞きました・一番早く消えてしまうのは?レース”の5組枠の5番目に本人たちに内緒で入れられていた(他の出走枠はキャイーン・ナインティナイン・グレートチキンパワーズ・今田耕司)。浜田雅功が「"バイバイ・ありがとう・さようなら"と自分たちが言われる日は近い」と解説すると、つんくはガクッと崩れ「一番ヤバイじゃない!!」と叫び、更に浜田が「以上、今年(1995年)はノリにノッてたお笑い5組によるレースであります!!」と言った瞬間メンバー全員が立ち上がり、リーダーのはたけと共に「お笑いちゃう!!、違うっ!!」と悲鳴を上げていた。結果は2位(9票)。そのあとの「1000人アンケート2ケタを狙え」のコーナーで「ファッションセンスの悪い男性タレントは?」と言う問題に、「ウチのメンバー全員がこれだと言ってるので」と、フリップに自ら「つんく」と自虐的な答えを書いていた。
1999年に台湾で起きた921大地震の復興のための募金活動を行うなど、ボランティア活動に熱心である。
2005年4月統合によって新たに開校した大阪府立かわち野高等学校の校歌を作曲した(作詞は元国会議員の塩川正十郎)。
芸能界一「ヨシモト∞」が大好きで、2006年5月24日には楽屋ゲストを果たし、7月12日にも訪れた。雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!に出演した際、お笑い芸人になることを真剣に考えていたことを語っている。
出身地である東大阪市のイメージソングを作曲し、歌を披露した。東大阪市のホームページで聞くことができる。また、市内のショッピングセンターなどのような場所でも流されることもある[3]。
『週刊文春』連載の阿川佐和子と毎回のゲストとの対談コーナー「あの人に会いたい」において、「いくら自分の音楽性やスタイルがあったとしても、売る側の都合によってそんなものは変えさせられてしまうんだから、自分は音楽においてポリシーや信念などは持たないようにしている」という趣旨の発言を残している。
Mr.Childrenの桜井和寿、ウルフルズのトータス松本、お笑いでは雨上がり決死隊、FUJIWARA、ほっしゃん。、宮川大輔、アンバランス、カラテカ、原口あきまさ、木村祐一、博多華丸・大吉などの多くの芸能人と親交がある。
作詞家の阿久悠を尊敬しており、作詞など影響を受けた部分もあるという。またピンク・レディーがモーニング娘。に与えた影響は大きく、活動当時にメンバーを増やす構成をされていたらそのアイディアは使えないため、モーニング娘。は存在しなかったと阿久悠の追悼特番で発言している。
韓国人を世界の中でも日本人と最も似ている国民であるとしたうえで「韓国人の喉はすごい!アジア人の中でもずば抜けた声とリズム感を持っている」と述べている。
レコーディングではモーニング娘。のそれぞれの個性を出すため、別室で個別にアドバイスを行うようにしている。
プロデュースするうえの苦労話として、国民の中から選び抜かれた美女集団の中で仕事をすることは拷問に近いと告白している。その理由として健全な男であれば美女が好きであり、当然異性として相手を見たい気持ちにもなる事もあるが、それではプロデューサーとして務まらない。そのため如何に自身やメンバーに異性を感じさせないかが大事なのであると告白している。また、そのような女の子を好きな気持ちを楽曲にぶつける事により良い楽曲が生まれるのだと雑誌の対談で語っている。
アマチュア時代・およびシャ乱Qブレイク前時代の苦労はモーニング娘。の39thシングル「しょうがない 夢追い人」にも描写されている。
醤油マニアである。
2010年元旦、人気者でいこう!の芸能人格付けチェックに参加、GACKTとタッグを組み、一流芸能人を獲得した。
大事件
1988年12月、はたけ、まこと、たいせー、しゅうとともにシャ乱Qを結成。ボーカルを担当。
1992年、シャ乱Qがメジャーデビュー。
1994年、MBSヤングタウンで競演するFUJIWARAの楽曲「明日が来る前に」のプロデューサーとしてプロデュース活動を開始。ただし、この時点では、プロデュースといっても、まだアドバイス的な役割に近かった。また、それ以前に明石家さんまへ提供する予定の楽曲を制作していたが、勝手に話が進んでいた事を不快に感じたさんま自身が断ったため、レコーディングは行われなかった。
1997年よりモーニング娘。のプロデューサーを本格的に開始する。
1999年11月3日、マキシシングル『TOUCH ME』でソロ・デビュー。
2000年12月、シャ乱Qの活動を休止。
2001年4月、芸能活動、プロデューサーとしての活動での名前を「つんく♂」と改名する。作詞作曲する際の名前は「つんく」のまま。
2002年2月、シャ乱Qのメンバー、まこと、元LOWDOWNのこーじと共にTHE つんくビ♂トを結成するが、活動を休止(期間限定説あり)。その後ソロ活動に戻り、2004年から2006年までモーニング娘。や松浦亜弥等の提供曲のセルフカバーや、自身の青春時代の思い出の曲をカバーした3枚のアルバムをリリースし、ライブやディナーショーを開催。
2006年4月3日放送の「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」の出演でシャ乱Q活動を再開。「堀内孝雄さんのおかげで、シャ乱Qの活動再開をしたくなった」との理由からである。
2006年4月24日、博多華丸の仲介で12歳年下の元モデル出光加奈子とお見合い。6月8日、婚姻届を提出し入籍した(しかし、婚姻の理由等について、これ以上の詳細は非公開としている。以降の家族構成なども不明である)。挙式は、同年8月10日、西本願寺にて仏前形式で行われた。
2006年10月1日、総合エンターテインメント事務所「TNX(ティーエネックス)株式会社」を設立。ゲームソフトリズム天国などのプロデュースを手掛ける。
2007年2月4日、北九州市長選挙で、柴田高博候補(自民・公明推薦)の応援に就く。飯田圭織・矢口真里が同行した。
2007年9月2日、テレビ東京系のドキュメンタリー番組『ソロモン流』で、「今、歌手として一番大切なのどに原因不明の病を抱え歌を歌う際に高い声が出難くなっている」と告白。また、「専門医の検査を受けたが治療法が未だ見つかっていない。」という。
2007年9月と12月、自身の芸能生活20周年を記念して、作曲・作詞曲を収録した4枚組ベストアルバムを2枚をリリース。
2008年4月29日、加奈子夫人が出産、双子(男児、女児の二卵性双生児)の父親となる。
2008年10月29日、誕生日のこの日におもいっきりイイ!!テレビの「今日は何の日」で、半生を取り上げられる。
2009年4月、シャ乱Qのファンクラブの解散に伴い、つんく単独のファンクラブ「天然音泉」が発足。