河合奈保子

简介: 小档案
姓    名 河合奈保子(かわい なおこ)
出生日期  
出 生 地 大阪市住之江区粉浜海滨 
毕业学院 私立大阪女子学园
职    业 歌手、演员
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小档案
姓    名 河合奈保子(かわい なおこ)
出生日期 1963年7月24日 
出 生 地 大阪市住之江区粉浜海滨 
毕业学院 私立大阪女子学园
职    业 歌手、演员
经纪公司 日本コロムビア
事 务 所 芸映プロダクション
艺人简介
河合奈保子,1963年7月24日出生于日本大阪市,演员、歌手。 河合奈保子是月半小夜曲的原作者,该歌曲名为ハーフムーン·セレナーデ 。
1980年刚刚出道之后,便赢得当时国民的追捧,虽然刚刚踏入歌坛时候并不顺利,在1981年表演时候跌下五米高的舞台,但大难之后的奈保子,在歌坛发展势头迅猛,在1981年年末的红白歌战中,奈保子就能够初试锋芒。她清亮的高音没有掺和任何的杂质,如同黄莺一般婉转悦耳,那首《月半小夜曲》(日文名ハーフームン.セレナーデ)不仅成就了原版的经典,也成为香港李克勤翻唱的经典。河合奈保子始终在80年代的歌姬之中占有重要的一席之地,即便是后来如日中天的中森明菜、松田圣子,也取代不了奈保子优雅清澈歌姬的位置。
 
プロファイル
名    前 河合奈保子(かわい なおこ)
誕 生 日 1963年7月24日 
出 身 地 大阪市住之江区粉浜海滨 
卒業学園 私立大阪女子学园
職    業 歌手、俳優
レーベル 日本コロムビア
事 務 所 芸映プロダクション
アーテイスト紹介
河合 奈保子(かわい なおこ、1963年7月24日 - )は、日本の女性元アイドル歌手、シンガーソングライター、女優。娘は歌手のkaho。
所属事務所は芸映プロダクション、レコード会社は日本コロムビア(2002年(平成14年)10月から2010年(平成22年)9月までの社名はコロムビアミュージックエンタテインメント)に所属していた。1980年代の歌手・アイドルの一人である。本名は「かわい なほこ」だが、芸名では「かわい なおこ」と読ませている。
シングル売上記録は「エスカレーション」「スマイル・フォー・ミー」「夏のヒロイン」「けんかをやめて」(オリコンチャート)の順。
歌以外にもピアノ・ギター・マンドリン・シンセサイザーを演奏し自作曲(作詞作曲)も発表した。雑誌のグラビアやアイドル水泳大会に登場していた。
1996年2月1日、記者会見にてヘアメイクアップアーティストの男性との婚約を発表。同年2月6日に婚姻届を提出。翌1997年の第一子出産を契機に芸能活動を停止する。夫との間に2児あり。このうち第二子であるkahoは2013年11月27日にソニー・ミュージックから「Every Hero/Strong Alone」でデビューした。
略歴
デビューまで
大阪市住吉区(現・住之江区)出身。1963年7月24日、浪速区日本橋の愛染橋病院において会社員の父親の長女として誕生(2400グラムの未熟児)。3歳年下の妹がいる。
粉浜小学校入学と同時にピアノを習い始めた。住吉第一中学校時代はフォークソングクラブに所属、中学2年の秋に日本テレビ系列『スター誕生!』に応募するが、この時は書類選考の段階で選外となる。1979年に私立大阪女子学園(現:大阪夕陽丘学園高等学校)に進学する。
アイドル歌手時代
1979年12月、芸映プロが自社の看板スターである西城秀樹の名を冠して主催した新人発掘コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」に応募。河合がオーディションを知ったのは締切の直前で、応募書類とデモテープを作成して送ったのは締切前日だった[2]。オーディションの選考過程も紙一重で、大本恭敬の「理想の声に近づく本」によれば、大阪の地区予選も一旦は最終審査に残らず、当初の定数1名に対して特別に2人目の代表として選出された(最初に選考され、河合と共に決勝大会に進んだもう一人の大阪代表は後の小林千絵。翌1980年3月16日に中野サンプラザで開催された決勝大会で優勝する。オーディション応募テープでは「オリビアを聴きながら」を、決勝大会では「春ラ!ラ!ラ!」を歌った。 同月末に上京して歌レッスンを受けた後、1980年6月1日に「大きな森の小さなお家」で「西城秀樹の妹」という触れ込みと共に歌手デビュー。この過程で明治大学付属中野高校定時制に編入し、後に卒業した。
デビュー時のキャッチフレーズは、「ほほえみさわやかカナリー・ガール」。2枚目のシングル「ヤング・ボーイ」がヒットとなり複数の音楽祭で新人賞を受賞する。
デビュー2年目の1981年10月5日16時頃、NHKホールでの『レッツゴーヤング』のリハーサル中、誤って4m下の迫りに転落し第一腰椎圧迫骨折の重傷を負う。約2ヶ月間の療養の後、同年11月30日放送の『夜のヒットスタジオ』より復帰を果たす。同年12月31日の第32回NHK紅白歌合戦に「スマイル・フォー・ミー」で初出場しトップバッターを務めた。翌年4月頃まで療養のためにコルセットを腰に装着して芸能活動を行う。NHK紅白歌合戦に初出場した際は、転落事故からの復帰直後で、かつ事故現場のNHKホールだったが、本人によればリハーサルは恐怖感が先に立ったものの、本番の出番寸前に不安や緊張が全て消えたという。
ライブコンサートは1980年代の後半まで行われた。1983年から1988年まで7月24日の誕生日に東京よみうりランドのEAST野外ステージで行われたバースデイライブなどが行われ、EASTライブは6回全てが映像ソフト化されている。
アイドル以外の仕事へ
1984年発表のアルバム「デイドリーム・コースト」では録音から制作に参加、それを契機に音楽の制作面にも関与する。1985年、ベストアルバム「NAOKO 22」のボーナストラックという形で自作曲を発表、コンサートでも次第に自作曲の割合が増え、1986年には初の全作曲オリジナルアルバム「スカーレット」を発表。
1987年4月のKBS京都の交通安全キャンペーン「かたつむり大作戦」のキャンペーンソングの歌詞募集の選考し、その詩に自ら作曲した『やさしさの贈り物[8]』を「かたつむり大作戦」の会場「KBSホール」から歌唱した。 またこの時期はテレビドラマやミュージカルにも積極的に出演した。1985年のアニメ映画『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』では主題歌と共に声優として出演。1989年には、ミュージカル『THE LOVER in ME 〜恋人が幽霊』に出演し、同作品では作曲も担当した。テレビドラマでは、『さすらい刑事旅情編』、『ママじゃないってば!』に出演。 1988年に岐阜市で行われた「ぎふ中部未来博」で、メインパビリオンであるスカイマックス未来館の館内環境音楽を担当した。
1989年から1990年には、ザ・ジェントル・ウインド名義のセッションアルバム「Tears of Nature」、「Gentle Voice」で全作曲を担当すると共に、キーボード奏者兼バックグランドボーカルとして参加し、ミッキー吉野らと共演したこともあった。
長期休業
1996年2月1日、記者会見にてヘアメイクアーティスト金原宜保との婚約を発表。同年2月6日に結婚。翌1997年の第一子出産を契機に芸能活動を停止する。
2005年6月、芸映プロ公式ウェブサイトの所属タレント一覧から項目が削除されたが、このとき芸能事務所から所属に関する発表はされなかった。
2006年4月26日、iTunes Music Store限定で自作ピアノ作品集「nahoko 音」を発表した。同年11月28日にはCD化もなされ、同時に公式ウェブサイトが開設された。
2008年12月21日付の竹内まりやのブログ「Pholog」に6年ぶりに再会した記事が写真付きで掲載された。
2009年10月19日放送のSUPER SURPRISEにおいて既に芸映に所属していない事が報じられた。
2010年4月、楽曲提供した池田泉州銀行のCMが関西地区で放映された。
2010年10月26日発売の光文社発行の雑誌「FLASH」2010年11月9・16日号で「独占取材」という形で、オーストラリアでの近況についての記事が掲載された。この中で自身の現在のことと将来のことに関して「今は専業主婦がメインだが、音楽活動が出来ることになれば皆さんの前できちんとご挨拶できたら良いです」という旨のコメントを寄せている。
 

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