大槻ケンヂ

简介: 小档案
大槻 ケンヂ(おおつき ケンヂ、 - )は、日本の東京都中野区野方出身のロックミュージシャンで作家。有限会社オーケン企画所属。身長178cm。本名は大槻 賢二(おおつき けんじ)。愛称は「オーケン」。インディーズ時代に使っていた芸名は「おーつきモヨコ」「大槻モヨ 更多>

小档案
大槻 ケンヂ(おおつき ケンヂ、1966年2月6日 - )は、日本の東京都中野区野方出身のロックミュージシャンで作家。有限会社オーケン企画所属。身長178cm。本名は大槻 賢二(おおつき けんじ)。愛称は「オーケン」。インディーズ時代に使っていた芸名は「おーつきモヨコ」「大槻モヨコ」等。血液型はB型。
小简介
東京都立田柄高等学校出身(1期生)、日本デザイナー学院中退、(実質二浪で)東京国際大学へ進学、その後中退。
父、母、兄の4人家族。父は信用金庫の支店長をしていた[1]。兄はTVカメラマンの大槻慎一(1964年 - )[1][2]。父方の伯父は松竹を経てフリーとなった映画監督の大槻義一(おおつき よしかず、1927年7月26日 - )[3][4]。
アーティスト名の表記を大槻ケンヂとしたのはKENZI&THE TRIPSのケンヂを真似たものである[5]。
辛辣かつ、相手を容赦なく徹底的に論破するなどの一面も持っている。例としては、1990年頃、伊集院光のラジオ番組にゲストで呼ばれた際、当時伊集院が心酔していた催眠術に対して生放送中に激しい疑問を呈し、当時の深夜放送界での盟友であった伊集院と数年間の絶縁関係に陥った事などが挙げられる(後に伊集院とは和解している)。
メジャーデビューの際、アポロンに『文化放送のレコード室にあるの全部ダビングしていいから』と口説かれたと語る[6]。
26歳からの3年間、タイで食べたオムレツに入っていたマジックマッシュルームがきっかけで心的外傷後ストレス障害に悩まされる[7]。その後、森田療法と出会い復活する[要出典]。
ライブパフォーマンスで、「〜だと問うならばー!」と客に振り、客が「問うならばー!」と返し、「〜したいですよねー!?」というフレーズを使う(例:この曲が聴きたいと問うならば→問うならば→聴きたいですよね→当該曲の演奏開始)。また、小道具として人形を登場させることがあるが、近年では下記のブースカを使用して一人芝居をする。また、ライブのクライマックス(アンコール後)の楽曲が終盤にかかると、ヌンチャクを取り出して振り回すことが多い。
快獣ブースカのぬいぐるみを我が子と称して多数所持しており、寝食を共にするほど。特撮ではブースカをモデルにした「文豪ボースカ」という曲を制作、ライブのMCにもボースカ(ブースカ人形)を参加させている。
本人もエッセイのネタにしているが「インディーズで話題になるまで」まったくモテなかった。また「初体験の相手はデビューしてから彼を取り巻きはじめた『ナゴムギャル』(ナゴムレコードファンの女の子)」とのこと。
1990年代のバンドブームの最中を第一線で過ごした人物として、バンドブーム時代の追っかけギャル達の生態やヴィジュアル系と言われるバンド群に関して、小説やエッセイ、対談などで多く言及している。また自分自身(筋肉少女帯)をヴィジュアル系の元祖であることも自書やエッセイでほのめかしている。
様々なサブカルチャーに精通しており、それらに関する多くの著作の他に、歌詞や小説にアイディアとして取り入れられている。特にUFOに関しては本人もマニアを自称するほど詳しい。
筋肉少女帯が売れ出した頃、ライブで自宅から外出する際、母親に「ケンちゃんコロッケ揚げたてだから、食べていきなさい!」と呼び止められたり、感謝の意も込め自身の収入からまとまったお金を親に渡すが、父親はそのお金を元手に息子が仕事にあぶれても収入が得られるようにと賃貸アパートを購入。このような家人のおおよそロックとはかけ離れた庶民臭さに大槻は嘆いている。
1970〜1980年代にヒットしたサブカル誌「ビックリハウス」の常連投稿者(ハウサー)だった。当時の年齢は13歳。「ビッグムーン大槻」というペンネームで、「ジャパベン共和国」というコーナーでは外務大臣の地位を得ていた。
プロレスや古武道を中心とした格闘技ファンでもあり、興行や大会などに足を運ぶ事もある。WWF日米レスリング・サミット(1990年4月13日)では、当時の恋人と思われる女性との2ショットを写真週刊誌に掲載されたことがある。実際に極真会館で空手を習っていた時期もあるが、上達する事はなかったという。
小学5年生から読書に目覚め、この時から江戸川乱歩作品に精通しており、アルバム名や歌詞の中に作品のフレーズを引用している他、自らが乱歩に向けた手紙を歌詞の中に入れるなど、大の乱歩ファンとして知られている。自身のファンに向けて、乱歩の短編小説「二銭銅貨」で用いられた暗号を使用してメッセージを書いた事などもある。作家業においても、エッセイでは怪人二十面相と明智小五郎に、明智の妻・文代、小林少年といった、乱歩の代表作少年探偵団シリーズの人物関係などの考察や、それを基にした短編小説を発表している。過去には世界・ふしぎ発見!の乱歩特集でミステリーハンターとして出演した他、近年ではNHKの江戸川乱歩作品考察番組への出演(2005年)や、同局『名作平積み大作戦』にてプレゼン(2006年)を行ったりしている。
他に文学関係では、中原中也や寺山修司などの影響も強く受けている。特に中原に関しては、筋肉少女帯のシングル『リルカの葬列』などの歌詞の中に詩や散文を引用したり、筋肉少女帯のアルバム『キラキラと輝くもの』に収録されている『サーチライト』では自ら「中也のパクリ」と自虐的な表現として用いた事がある。
シャーロック・ホームズに没頭した時期もあり、ホームズが体得していた謎の東洋格闘技・バリツとは、当時のイギリスで教えられていた柔術を取り入れた護身術・バーティツなのではないかという仮説をエッセイ中で述べ、ホームズの子孫とモリアーティ教授の子孫がバリツを駆使して戦う短編小説の発表もしている。
本人も公言するほどファンに手を出すことで有名。近年でも度々写真週刊誌に女性とラブホテルでの密会現場などが掲載されている。こういった女性達を題材にした著書「愛の履歴書」というエッセイや「バンドマンの恋人になる方法」という本も出版されている。
今までは大槻ケンヂは「千人斬り」とされてきたが、テレビ番組、美しき青木・ド・ナウにゲスト出演した際、大槻ケンヂ本人から「千人も斬ってないから300人くらいに直しておいて」と呼びかけ、訂正されたことがある。
2008年になって「(有)オーケン企画」の社歌を作ろうと目論んでいる。アンプラグドライブの打ち上げの際、「我が社は御社〜♪へりくだって弊社〜♪」や「ゆーげん ゆーげん オーケン企画〜♪」というフレーズを作って自分だけが大ウケしていた。
「物販も大事」と悟り、バンド活動と共に販促に勤しんでいる。
ミュージシャンとしての活動歴は長いが、スタジオの仕組みについては未だに解っていないことを2007年4月6日放送の『MUSIC JAPAN』第1回に筋肉少女帯で出演した際に自他共に認めた。橘高文彦がレコーディング作業をし、ボーカル録り以外完成していたとある曲をインストゥルメンタルにすることを他のメンバーと同意してたところ、大槻が詩の朗読を入れたいと言い出した。当時のスタジオは48チャンネル使え、更にもうひとつのスタジオとも繋いでいたため、96チャンネル使えたが、今更収録するのを面倒臭かったため「スタジオで使えるチャンネルは限られていて、君の歌を入れる場所はない」と嘘をつき、大槻を納得させたことを明かした。
大事件
少年時代、中学の同級生内田雄一郎と共に漫画家を目指していたが、YMOやヒカシューといった80年代ニュー・ウェイヴ、JAGATARAやザ・スターリンやINUといったロックバンドなどに影響を受け、次第に音楽の世界へと興味を持ち始める。ちなみに最も影響を受けた漫画家は蛭子能収、その他にも諸星大二郎らがいる。
1979年、内田の誕生日会での余興の延長線上として、友人数人とバンド「ドテチンズ」(ザ・ドンズ)を結成。当初はエレクトーンを担当していた内田以外に楽器の演奏が出来るメンバーがいなく、大槻は健康器具の青竹を打ち鳴らしたりしていた。ドテチンズは中学卒業と共に解散。
1982年2月、内田と共にロックバンド「筋肉少女帯」を結成(当時のバンド名は「筋肉少年少女隊」)、大槻はボーカルとベースと作詞を担当。ほぼ同時期、内田の高校の先輩であったケラ(現ケラリーノ・サンドロヴィッチ)がドテチンズの音源を聴いて面白がり、大槻と内田とケラの三人でカラオケユニット「空手バカボン」を結成、1983年にケラの主宰していたナゴムレコードからインディーズデビュー。後に筋肉少女帯もナゴムからリリースを重ね(ごく初期の段階で、大槻がベースを弾きながらだと歌えないことが発覚したため、内田雄一郎にベースのポジションを任せている)、1980年代後半からのバンドブームに乗ってメジャーデビューする。初期の売り文句は「親から革パンツを買ってもらうロッカー」。
筋肉少女帯のフロントマンとしてオールナイトニッポンのパーソナリティーを始めとする様々なメディアに露出し、「徹子の部屋」などのテレビ番組にも出演する。「徹子の部屋」初回登場の際は、極度の緊張で聞かれた内容を上手く表現できなかったという。
レコード会社を数社移籍しつつ、ソロ活動や「UNDERGROUND SEARCHLIE」「80年代の筋肉少女帯」といったユニット活動の後、1999年に筋肉少女帯を脱退、新バンド「特撮」を結成して音楽活動を続ける。また、ソロ活動時に大槻のバックバンドを務めていた石塚BERA伯広(qyb、元筋肉少女帯)や小畑ポンプ(すかんち)、佐藤研二(元マルコシアス・バンプ)と共にアングラロマンバンド「電車」を組んだ他、「オーケン&ニセ特撮」「大槻ケンヂ&ヤングス」「大槻ケンヂと名前は何でもいい」といった企画バンドで各種イベントにも多数出演。現在も、アンプラグドユニットや、バンド形式ながら大槻以外のメンバーを固定しない「大槻ケンヂス」、ジャズやアニメ・特撮ソングといったイベントへのゲスト参加などで、積極的にソロでのライブ活動を行っている。
縁のあるミュージシャンやサブカル系のゲストを招いて新宿ロフトプラスワンにて行われるトークイベント「のほほん学校」も、98年から現在まで定期的に行われている。
筋肉少女帯時代の一部のメンバーとは一時決別状態であったが、近年イベントなどを通じ「仲直り」し、2006年7月に復帰。12月に筋肉少女帯復活ライブを行った。同年12月25日付で『大槻ケンヂと特撮ファンクラブ』より特撮のバンド活動休止が発表されるが、後に新しい所属事務所・オーケン企画より、活動休止ではなく、あくまで充電期間である、との説明が行われる。特撮としてのバンド活動は行われていないが、大槻ソロでの音源録音やライブでは、特撮メンバーと共に行われる事がある。
90年代前半から筋肉少女帯として活躍する傍ら文筆活動も始めている。小説に『新興宗教オモイデ教』『グミ・チョコレート・パイン』『ステーシー』などがある他、『オーケンののほほん日記』など複数のエッセイを著している。大槻のエッセイは、フランス文学者の鹿島茂や評論家の坪内祐三も絶賛している。また、『SFマガジン』(早川書房)にて執筆していた『くるぐる使い』と『のの子の復讐ジグジグ』は日本SF大会日本短編部門「星雲賞」(各25、26回)を受賞している。作家活動における文体は、昭和軽薄体を意識しているとの事。日本SF作家クラブの会員でもあるが、本人によれば幽霊部員状態が続いているという。
2007年現在、筋肉少女帯への復帰以降から小説執筆は止まっているが、対談やエッセイの連載は続けている。
2008年6月21日で筋肉少女帯デビュー20周年を迎えた。

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