浅川マキ

简介: 小档案
浅川 マキ(あさかわ まき、 - )は、日本の歌手、作詞家、作曲家、編曲家。 淺川マキとも綴られることがある。
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浅川マキは音楽そのものに限らず音質、ジャケットデザイン、ライナーノート、ポスターの配置などにも一貫した美意識を持ち、今日も 更多>

小档案
浅川 マキ(あさかわ まき、1942年1月27日 - 2010年1月17日)は、日本の歌手、作詞家、作曲家、編曲家。 淺川マキとも綴られることがある。
小简介
浅川マキは音楽そのものに限らず音質、ジャケットデザイン、ライナーノート、ポスターの配置などにも一貫した美意識を持ち、今日もその姿勢は崩していない。
日本国内に於けるアンダーグラウンドを主体とした音楽活動の第一人者であるが、“アンダーグラウンド”と“(いわゆる)アングラ”を混同してはならないと主張。独自の美意識を貫く姿勢を「時代に合わせて呼吸をするつもりはない」と自ら表現している。
自らの作品に於いて“作詞”の表記を詞ではなく、詩を用いている。(各々の日本語の定義を参照されたし)
外国作品を自ら日本語で唄う場合、原作の保つ世界観を損なわぬよう先ず対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで推敲し新たに詩作を行う。そのため表記を “訳詩” とせず “日本語詩” としている。ちあきなおみの歌唱で知られる『朝日のあたる家(朝日楼)』やダミアの歌唱にて有名である『暗い日曜日』、ビリー・ホリデイのナンバー『マイ・マン』等に於いて独自に制作した日本語詩などは特に著名である。
ライターになる前の藍渕邪子が楽屋を訪れ、「『東京挽歌』の音源を持っている」と告げたところ即座に「棄ててください」と返答した経緯がある。『東京挽歌』が世に出たこと自体は否定せぬものの“歌手・浅川マキ”の意向が反映されていないためディスコグラフィーから外しているという。その経緯はステージ公演中に本人も話題にすることがある。
1993年、東芝EMIが“音蔵シリーズ”と称するアルバム作品群のCD化企画を行い、その中に浅川マキのアルバムが4タイトル含まれていたが発売するも短期間で自ら廃盤にした。「音質が気に入らなかったの、特に『マイ・マン』の(CDの)音はジャズではないんです」と語った。後日別件でEMIを訪ねた藍渕が「浅川マキの作品は浅川マキ本人の意向により廃盤せざるを得なかった」と当時の担当者より取材している。
大事件
石川県石川郡美川町(現:白山市)出身。石川県立金沢二水高等学校卒。 町役場で国民年金窓口係の職に就くも程なくして上京する。 マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始める。
1967年にビクターからEP『東京挽歌 / アーメン・ジロー』を発表するも本人と事務所の音楽的指針に大きな乖離があり、当時の出来事がその後の活動に影響を与える。
1968年、寺山修司に見出され新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を三日間に渡り催行、口コミで徐々に知名度が上がる。やがて東芝音楽工業株式会社(現:EMIミュージック・ジャパン)に移籍、1969年7月1日、EXPRESS-レーベルより『夜が明けたら / かもめ』で正式にレコード・デビュー。 以後1998年まで移籍すること無く作品を発表しつつステージを主体に音楽活動を行う。 特に池袋文芸坐ル・ピリエで1997年まで催行した大晦日連続定期公演は有名である。
CDの音質に対して懐疑的であり、それ故1998年より新譜を発表していないが、2000年以降はジャズ・クラブ「新宿 PIT INN」を本拠地として定期公演を再開。 ジャズ、ブルースや黒人霊歌を独自の解釈で歌唱する姿勢は定評がある。
2010年1月17日、ライブ公演で愛知県名古屋市に滞在中、宿泊先ホテルで倒れているのが発見され、搬送された病院で死亡が確認された。享年69(満67歳没)。愛知県警察中警察署によると、死因は急性心不全とみられる。

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