白井貴子

简介: 小档案
白井 貴子(しらい たかこ、 - )は、神奈川県藤沢市出身のシンガーソングライター。2006年、デビュー25周年を期に、バンド活動を再始動。
小简介
生まれは神奈川県藤沢市だが、幼稚園に通う頃には、福岡県に住むことになる。小学生になる頃には名 更多>

小档案
白井 貴子(しらい たかこ、1959年1月19日 - )は、神奈川県藤沢市出身のシンガーソングライター。2006年、デビュー25周年を期に、バンド活動を再始動。
小简介
生まれは神奈川県藤沢市だが、幼稚園に通う頃には、福岡県に住むことになる。小学生になる頃には名古屋にも住んでいた。高校生の時は、京都府の京都女子高等学校に通っていた。その後の音楽にも京都の学生時代の影響は大きい。
最終学歴はフェリス女学院短期大学音楽科。
全国を転々としたのは、父親の仕事の都合。3歳当時は、自宅に先生を通わせてピアノも習っていたが、本人は練習がいやで垣根を飛び越えて逃げ出すような女の子だった。また、かつてレギュラー出演していた『サンデーモーニング』内ではバイオリンを習っていた時期もあったと発言している。これだけだと随分裕福な家庭のようだが本人いわく「父は普通のサラリーマン」。
少女時代には、大のビートルズマニアである叔父が同居しており、3歳頃からビートルズの音楽を頻繁に聴いていた(白井貴子本人は、覚えていないと語っている)。15歳の頃より不意にメロディーが浮かぶことがあったが、この頃はまだ楽譜の書き方も知らなかったため作品にはなってはいない。初めてミュージシャンになることを考え始めたのは、自身が1990年にポリスターより発売したアルバム『BOB』に収録されている『ガラスの天井』にある通り、17歳。
大事件
1980年代
1981年
CBSソニーレコードの主催するオーディションに合格し女性ヴォーカリストとしてデビュー。
佐野元春のバックコーラスにも参加。翌年、佐野元春の『SOMEDAY』をカバーする。
その後、ロックバンド『白井貴子 & CRAZYBOYS』を結成し、自身の居場所をポピュラー音楽からロックミュージックへと移すが(こうした転身は先駆的)、この時代、音楽業界からは「女にロックは解らない」と冷淡な扱いしかされなかった。そんな周りの反応を吹き飛ばすかのように、ライブが始まると同時に観客が総立ちになる現象から当時は「総立ちの貴子」と呼ばれ学園祭クイーンにもなった。
この当時の衣装はミニスカートばかりだった。当初はジーンズ姿で歌っていたが関係者から「もっとファンのものにならないと売れないよ」と諭されたのがきっかけ。ただし「ライブ中は見られてもいいように下着の上に水着をはいてる」と発言したことがある。
ロックンロールエンジェルの名の下に、日本武道館、西武球場など、大規模なコンサートを次々と成功させていった。しかし、そうした活動とは裏腹に、売り上げトップ10に入るのはアルバムだけで肝心のシングルは1984年に出した『CHANCE!』(シチズンリビエールCMソング)が最高位12位で終わっている。
1986年
この頃から、ビジネスライクな音楽業界と自身との軋轢が限界にきており、ミュージシャンとしての自分を見つめなおすために1年かけて仕事を減らし、1988年春には、事務所もレコード会社も辞め、バックバンド『CRAZYBOYS』のリードギター本田清巳と共に渡英した。
1990年
再活動。
それまでのロックミュージシャンとしての活動とは違い、ポップス色を強めた楽曲が増える。
1990年代
1993年
本田清巳と結婚。
本人がテレビで語ったことによると「私たち2人は結婚という形式に縛られるつもりは無かったけれど親を安心させたくて(笑)」
1995年
この頃からは、ポップス色の強いものからアコースティックへと変わっていく。ミニライブなどでは、本田のアコースティックギター1本で歌うことが増える。
『ROD』(River Of Dreams)というバンドを従えてのライブも行うが、エレキギターが使われることは稀だった。(こうした活動は、2006年にクレイジーボーイズが復活するまで10年あまり続くことになる)
NHK総合テレビジョン『ひるどき日本列島』でゲストレポーターとして出演。この時に番組史上最高の視聴率を記録したことから翌年から3年間レギュラーを勤めることになる。初のNHKのレギュラーということもあり、父親は「どこへ行ってもお前の事を聞かれる」と喜んでいたそうだが、番組内で行う自己紹介の「青空の好きなロックシンガー」という言葉にもある通り、本人はロックミュージシャンとしてのプライドが邪魔をしていて「おじいさんなんかと楽しく話せるようになるまで時間がかかった」そうだ。
番組では「元気になーれ」というテーマ曲を手がけ、シングルにもなった。出せば売れることが判っていながら「商売にしたくない。みんなと楽しく歌えるものにしたい」という本人の意向でファンクラブのみの通信販売という形になったが、NHKは公共放送であるため販売方法の宣伝などは出来ず、そのため番組を見て「欲しい」と思った視聴者が手に入れられないという本末転倒もあった。
1999年
この年に発売したアルバム『LIVING』は自身が立ち上げた個人レーベル「ROD」名義のものとなる。同じ頃、個人事務所も立ち上げた。事務所の社長は夫の本田清巳。
それ以後は紀行番組のレポーターとしても多数出演。地球環境にも造詣を深め、各地で講演・啓発活動などに出演しており、
現在のように、ミュージシャンがエコロジーという言葉を使い始める以前からリサイクルできるCDジャケットやパッケージなどを提案していたが、当時はコストがかかりすぎるという理由で中々実現できなかった。
また、横浜市立倉田小学校の校歌の作詞、作曲を手がける。校歌としては前代未聞の歌詞とアップテンポなメロディは一度聞いたら忘れられないものとなっている。タイトルは、『大好き 倉田小』。倉田小学校HP
2000年代
2001年
『ROD』名義の2枚目のアルバム『HANA』発売。
神奈川県2001年「希望の年」記念事業の一環として、2001年記念音楽祭のために作られた合唱曲『ふるさとの風になりたい』を作曲(作詞は一般公募で選ばれた星合節子)。最初の『Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ 2001』にも出演。
この他、テレビアニメ『逮捕しちゃうぞ』のエンディングテーマや、TBSラジオの環境キャンペーンテーマソングなどでも知られる。
2006年
9月にベストアルバム『NEXTGATE 2006』がソニーより発売された。その後、『TAKAKO & THE CRAZY BOYS』として本格的にバンド活動再開。『LIVING』の発売の前後から、白いTシャツにジーンズという衣装で歌うことがほとんどだったが、『TAKAKO & THE CRAZY BOYS』名義での活動時には、デニムのミニスカートをはいている。1980年代に穿いていた衣装を大事に取っておいたのだという。NEXT GATE 2006ツアーは2007年2月17日に渋谷で追加公演も行われた。

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