ORIGINAL LOVE

简介: 小档案
田島貴男(たじま たかお、 - ) - ボーカル、ギター
ほとんどの曲の作詞、作曲、編曲、プロデュースを担当。
 
過去の正式メンバー 
 
秋山幸広(あきやま ゆきひろ)- ドラムス、結成~1990年。
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小档案
田島貴男(たじま たかお、1966年4月24日 - ) - ボーカル、ギター
ほとんどの曲の作詞、作曲、編曲、プロデュースを担当。
 
過去の正式メンバー 
 
秋山幸広(あきやま ゆきひろ)- ドラムス、結成~1990年。
小里誠(おり まこと、1965年3月13日 - ) - ベース、結成~1990年。
脱退後ザ・コレクターズへ加入。
村山孝志(むらやま たかし、1965年2月13日 - ) - ギター、結成~1993年。
脱退後ファースト・インプレッションを結成。オリジナル・ラヴ時代からミュージシャン活動と並行して塾で講師を勤めていたが、ファースト・インプレッションの活動休止(のち正式解散)を機に音楽活動を事実上停止し、塾講師に専念。現在は河合塾の古文講師として教鞭を執っている。
宮田繁男(みやた しげお、1958年5月3日 - ) - ドラムス、1990年~1993年。
ピチカート・ファイヴのサポートメンバーを経て加入。脱退後、村山と共にファースト・インプレッションを結成。そのかたわらスタジオミュージシャンとして数多くのセッションに参加。
木原龍太郎(きはら りゅうたろう、1963年3月9日 - ) - キーボード、1990年~1995年。
ブルー・トニックより加入。脱退後、「キハラ龍太郎」名義でプロデューサーとして活動。
森宣之(もり のぶゆき、1964年1月7日 - ) - サックス • フルート、1990年~1993年。
脱退後、アレンジャーとして活躍。シャ乱Q「ズルい女」のホーンアレンジを担当。2006年に脳梗塞を患い、2008年福岡に帰郷。リハビリをしながら2009年、クラウド・ナイン・オブ・ミュージック代表として童謡 • 歌謡曲の演奏に携わる。
小松秀行(こまつ ひでゆき、1969年1月23日 - ) - ベース、1993年~1995年。
オーディションでの加入を機に、プロのミュージシャンとして活動を開始。脱退後、スタジオ・ミュージシャン、プロデューサーとして活動。
小简介
オリジナル・ラヴ(ORIGINAL LOVE)は、日本の音楽グループ。結成当初は4人、メジャーデビュー時は5人のバンドだったが、現在は田島貴男のソロユニットである。
略称は、一般的に使われていた「ジナラヴ」「オリラヴ」ではなく、「OL」(オーエル)とするように田島本人が呼びかけている。
 
 
ロック、ソウル、パンク、ブルース、ジャズなどの洋楽を中心とした幅広いルーツを持つポップスである。田島貴男の膨大な音楽知識に裏打ちされたアレンジと、さらに大量の読書量に支えられた作詞とで、粗製濫造に陥らない完成度の高い作品をコンスタントに発表している。
表面的な音楽性の振れ幅は非常に大きい。メジャーデビュー前は、ネオGS、ポストパンク、ギターポップなどと括られる(『Original Love』)。メジャーデビュー前後では、クラブサウンドに接近、ニューソウル再評価の流れに乗ったり、またアシッドジャズをいち早く取り入れたりする(『LOVE! LOVE! & LOVE!』~『EYES』)。「接吻」「プライマル」のヒットにより「バラード歌手」としてのレッテルが貼られていた頃も、アルバムではブラジル音楽(『風の歌を聴け』)、スワンプ(『Rainbow Race』)、民族音楽(『DESIRE』)などに傾倒する。ソロユニットとなってからは生音中心のバンドを一旦棚上げし「機材」に接近(『ELEVEN GRAFFITI』)、シカゴ音響派などのサウンドに影響を受ける(『L』)。ついにはターンテーブルをフィーチャーしたバンドとなり、オルタナティブ的なミクスチャーまで行きついてしまう(『XL』『ビッグクランチ』)。その後、一転してアコースティックジャズバンドに“回帰”(『ムーンストーン』)。近作ではブギー、スカ、昭和歌謡の影響が強い(『踊る太陽』『街男 街女』)。
このように、アルバムごとに音楽性が目まぐるしく変化するのがオリジナル・ラヴの特徴である。アルバム数枚を聴いた限りでは、音楽性の全容は掴みづらいといえよう。一般的には、ジャズ、ソウルを日本的なR&Bとして昇華していた、2ndアルバム『結晶』から5thアルバム『Rainbow Race』にかけての「おしゃれで先進的でかっこいいイメージ」が定着していると思われる。
上述のようなアルバム主体のマニアックな音楽性を持つ一方で、「接吻」「朝日のあたる道」「プライマル」などのヒットメーカーとしての一面も併せ持つ。田島貴男をピチカート・ファイヴに勧誘した小西康陽は、この才能をいち早く見抜いた人物であり、フロントマンとしてよりもコンポーザーとして田島を誘ったという。