Flipper's Guitar

简介: 小档案
 
フリッパーズ・ギター(The Flipper's Guitar、単にFlipper's Guitarとも)は日本のバンド。「パーフリ」「フリッパーズ」という略称で呼ばれる。
 
成员
 
元々は小山田圭吾(当 更多>

小档案
 
フリッパーズ・ギター(The Flipper's Guitar、単にFlipper's Guitarとも)は日本のバンド。「パーフリ」「フリッパーズ」という略称で呼ばれる。
 
成员
 
元々は小山田圭吾(当時は「圭悟」、ボーカル、ギター)と井上由紀子(キーボード)の二人で結成したバンド「Pee Wee 60's」が原型。そこに小沢健二(ギター、サイドボーカル)に吉田秀作(ベース)、荒川康伸(ドラムス)の三人が加わり、五人編成となる。やがて「ロリポップ・ソニック(Lollipop Sonic)」へ改名しライブハウスなどで活動。当初はネオGSの枠で捉えられていた。メジャーデビューの際、「フリッパーズ・ギター」と改名した。
 
 
小简介
 
音楽的傾向
 
1stアルバムは全曲英語による歌詞という当時としては極めて異例の挑戦的なものだった。2ndアルバムはある程度聴衆に歩み寄り全曲日本語詞となる。1st、2ndアルバムは、アズテック・カメラ、スタイル・カウンシル、ヘアカット100、モノクローム・セットを彷彿とさせるいわゆるネオアコ、ギターポップ、フレンチに属する楽曲に仕上がっている。しかし、3rdアルバムはトレンドフォロワー的な傾向が強く、ビーチ・ボーイズやプライマル・スクリームなど、当時の流行を積極的に取り入れたものとなっており、また当時のイギリスなどに見られたレイヴ・カルチャー、シューゲイザーの影響も色濃く反映された音に仕上がっている。 因みに主なアルバムジャケットはアートディレクター・映像ディレクターの信藤三雄によるものである。
また、ファッション雑誌「Olive」に盛んに広告を出したことでも知られており、彼らのベレー帽やボーダーシャツ、ホワイトジーンズなどの ファッションは当時の若者たちに強い影響を与えた。
現在でもテレビ番組(例:落下女)やコマーシャル(例:日産K12型マーチ)でBGMとして使われることが多い。なお、小泉孝太郎出演の「孝太郎プラス」のオープニングにも曲が使用されている。
 
フリッパーズ・ギターにまつわる話
 
バンド名は、アメリカのテレビドラマ「わんぱくフリッパー」から取られている。「『フリッパー』っていう言葉の響きが良くて、新しいバンド名に使いたかった。」と、後日コメントした。当時ドラムスの荒川康伸は後に「前略小沢健二様」収録のインタビューで「『フリッパーズ・ドラム』が良かったのに」と述べている。
前述の「Pee Wee 60's」結成のきっかけは、当時別のバンドのメンバーだった井上がファッション誌に載っていた小山田に自分とバンドを組むようにナンパしたところから始まったという。1stアルバムの歌詞カードにはそのいきさつが漫画で描かれている。
ビデオ『The Lost Pictures』には、後に小山田がプロデュースするカヒミ・カリィ(当時は本名の「比企真理」)が出演している。オープニングには東幹久のデビュー映画「オクトパス・アーミー」の映像が挿入されている(ちなみにこの映画の主題歌は「Friends Again」だった)。[1]
上記ビデオで小山田は足を引きずっているように見えるが、これは撮影前に事故で怪我をしたためである。また、彼はその入院中にブライアン・バートンルイスと知り合い、濃密な関係を築いていく。
ニューエスト・モデル( 現ソウル・フラワー・ユニオン)のライヴにゲスト参加し、その直後、中川敬とロッキン・オン誌上で対談した二人は、中川に「もっとライヴをやるべきやで」と言われ、即「中川さん、もっとオリーブとかに出なきゃ」と切り返した。のちに中川は、影響を受けた日本の同時代アーティストに、ボ・ガンボスとフリッパーズ・ギターの二者だけをあげていた。
解散後に出された『colour me pop』、『on PLEASURE BENT』は、後に小山田が主宰するレコードレーベル「トラットリア(trattoria)」のno.1、2となっている。ただしこの2枚の内容について、メンバーは一切関わっていない。ちなみにこの二作がリリースされた要因としては、突然の解散によるライブツアーの中止で少なからず損失を受けることを危惧したポリスター側が穴埋めとして急遽企画・販売したという説がある。しかし結果的にはフリッバーズ・ギターのレアな音源が出されることになった。
1990年秋、NECのノートパソコン、ハンディ98のCMキャラクターとして新聞広告に登場するも、その後のTVCMでは、なぜか大江千里に交代した。
雑誌の取材では意図的に、冗談ぽく傲慢な物言いをするときがあった。特に小沢はソロデビュー後、自らを王子様と称し、雑誌などの取材のオファーを受ける際、条件として「郷ひろみのような感じで僕を扱ってください」と発言していた。
 
 
大事件
 
1989年、小沢が作詞を担当した全曲英詞の1stアルバム『three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった』でポリスターよりデビュー。その直後に小沢の求める音楽性の違いから荒川、井上、吉田が脱退し、小山田と小沢の2人編成となる。1990年、全曲日本語による2ndアルバム『CAMERA TALK』をリリース。
1991年、3rdアルバム『ヘッド博士の世界塔』をリリースするも、程なくして突然の解散表明。ライブツアーの直前に解散したため、世間から少なからず批判を受けた(読売新聞では無責任な若者の代表として取り上げられた)。その後二人はそれぞれコーネリアス、小沢健二としてソロ活動を開始した。
フリッパーズ・ギターは、テレビ番組「イカすバンド天国」に見られるバンドブームの影響下にあった当時の日本に詞、曲、ファッション、メディアとの関係等の点からその潮流に一石を投じ、さらには日本の軽音楽の流れに多大なる影響を与えた存在であると認識されている。この観点から日本の軽音楽の流れにおいて「フリッパーズ・ギター以前か以後か」という区切りが用いられている事も多く、フリッパーズ・ギターの登場により、多種多様な音楽が大衆に受け入れられるという土壌の形成を促すに至ると同時に、多くの形式上類似したバンドが登場することとなる。因みに、フリッパーズ・ギターが解散し、小沢・小山田が活動再開を始めた93年後半に(本人たちの意思とは無関係ではあるが)、オリジナル・ラヴやピチカート・ファイヴなどと共に、それまでのJ-POPシーンに見られなかった強い洋楽志向を指す「渋谷系」というムーブメントが巻き起こった。

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