松田優作

简介: 小档案
松田 優作(まつだ ゆうさく、1949年(昭和24年)9月21日 - 1989年(平成元年)11月6日)は、山口県下関市生まれの日本の俳優、歌手。本名は同じで、旧名は金優作(キム・ウジャッ)。本当の誕生年月日は1949年(昭和24年)9月21日だが母が「同級生た 更多>

小档案
松田 優作(まつだ ゆうさく、1949年(昭和24年)9月21日 - 1989年(平成元年)11月6日)は、山口県下関市生まれの日本の俳優、歌手。本名は同じで、旧名は金優作(キム・ウジャッ)。本当の誕生年月日は1949年(昭和24年)9月21日だが母が「同級生たちよりも身体が大きいし、知恵も上で、有利になる」との考えで意図的に出生届の提出を遅らせたため、戸籍上は1950年(昭和25年)9月21日生まれになっている。
大事件
1949年(昭和24年)9月21日 - 山口県下関市で、日本人の父と在日韓国人の母との間に非嫡出子として生まれた。父親は長崎出身の保護司で当時39歳、郷里に妻子を持つ180センチメートル近い大柄な男性だった。2人の異父兄がおり、兄弟仲は良かったが、次第に自身の出生の秘密に気付き始め、それが原因で孤独を感じるようになる。
1966年(昭和41年) - 下関市立文洋中学校卒業。下関市立第一高等学校(現:山口県立下関中等教育学校)に進学。
1967年(昭和42年) - 11月、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、不本意ながら下関市立第一高等学校を2年で中退し、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米する。カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市のシーサイド高校に入学、1年足らず滞在。
1968年(昭和43年) - 叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、9月、母に無断でシーサイド高校を中退し帰国。これより前、中学時代より空手道を修行しており、流派は不明だが弐段を允許されている。帰国後は極真会館本部道場で稽古をしていた。その経験は、後のアクションシーンの随所に活かされる。長兄一家の池袋のアパートに居候して東京都豊島区にある私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。
1969年(昭和44年) - 3月、豊南高等学校卒業。
1970年(昭和45年) - 4月、関東学院大学文学部入学。
1971年(昭和46年) - 3月、文学座の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格。同年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。ここで最初の妻美智子と知り合う。
1972年(昭和47年) - 関東学院大学文学部中退。同年4月、文学座付属演技研究所十二期生となった。文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、後輩に中村雅俊、二期先輩に桃井かおりがいた。役者に専念するために、6月には大学に中退届を出す。この頃、『突撃! ヒューマン!!』のヒューマン/岩城淳一郎役のオーディションを受けたという。また、1969年(昭和44年)頃の無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーをしていたときに、客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合いになり親交を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、松田を推薦した。このことが『太陽にほえろ!』に出演につながる。
1973年(昭和48年)7月20日 - 刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事として出演、その活躍・殉職シーンが話題となる。同年9月、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得。通名だった松田優作が本名となる。
1973年(昭和48年) - 志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にてスクリーン・デビュー。
1974年(昭和49年) - 、黒木和雄監督、ATG、映画同人社提携作品の時代劇映画『竜馬暗殺』。主演の原田芳雄と共演し、時代劇初出演。続いて同年公開の澤田幸弘監督、日活制作のコメディ・青春映画『あばよダチ公』で映画初主演。
1975年(昭和50年)1月31日 - 同年7月19日の『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの夜、19歳の予備校生に対して共演者Eと共に暴力を振るい、全治3か月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕される。このため、1年間の謹慎生活を送る。身柄を東京拘置所に移された後、傷害容疑で起訴され、同年3月10日、東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。
1976年(昭和51年)1月放送の刑事ドラマ『大都会 闘いの日々』第4話「協力者」の回にゲスト出演しテレビ仕事に復帰。
1976年(昭和51年)5月 - 東映『暴力教室』(岡本明久監督)がクランクイン。これにより映画復帰を果たす。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、アクション映画という松田優作のイメージとは異なる臆病な侍を演じ、時代劇初主演となる。
1976年(昭和51年)7月25日 - アルバム『まつりうた』で歌手デビュー。
1977年(昭和52年) - 角川映画『人間の証明』棟居刑事役で主演。刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰。
1978年(昭和53年) - 村川透監督の東映セントラルフィルム映画『遊戯シリーズ』第一作『最も危険な遊戯』主演(同年『殺人遊戯』、翌年『処刑遊戯』)。
1979年(昭和54年) - 村川透監督角川映画『蘇える金狼』(翌年『野獣死すべし』)そして澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』主演。また、映画では初主演になる推理もの・ミステリー映画『乱れからくり』(泡坂妻夫原作、児玉進監督)。TVドラマ『探偵物語』に主演、若者を中心に高い人気を得る。この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。傷害事件の執行猶予満了。
1983年(昭和58年) - 森田芳光監督の映画『家族ゲーム』で、それまでのイメージを一新する役柄を演じ、数多くの賞を受賞。
1985年(昭和60年) - 『それから』で再び森田芳光作品に出演し、主人公を好演する。
1986年(昭和61年) - 映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督が降板。自らがメガホンを取ることとなり、これが初監督作品となる。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である。
1988年(昭和63年) - 深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田優作は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後アメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、出演していた。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。
1989年(平成元年)11月6日 - 午後6時45分、入院中の西窪病院(現在の武蔵野陽和会病院)で膀胱癌の腰部転移のため死去。享年40。
『ブラック・レイン』で高評価を得ていた松田には、ハリウッドからロバート・デ・ニーロとの共演作などの出演依頼も来ていた。
松田が弟の様に可愛がっていた仲村トオルは松田の遺体の前で「優作さん!起きてください!早すぎるよ!!」と泣き叫んだ。
亡くなった翌日放送の『夜のヒットスタジオSUPER』に於いて、追悼で松田が出演していたVTRが流れた後に司会の加賀まりこが涙を流して追悼のコメントを語った。遺作となったTVドラマ『華麗なる追跡 THE CHASER』は、「世界一速い女」フローレンス・ジョイナーと「世界で一番速く走っている様に見せられる男」松田の共演というコンセプトであったが、進行した病の為思うように走れなくなっていた松田は、脚本や演出に手を入れてかなりの改変を加えた。スタッフの中には内心腹を立てた者もいたが、松田の死後にその理由を覚り、後悔したという。

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