ザ・タイガース

简介: 小档案
沢田研二(ジュリー)(-)リードボーカル、タンバリン、パーカッション
岸部修三(サリー、後に岸部一徳に改名)(-) リーダー、ベースギター、低音コーラス、ボーカル
加橋かつみ(トッポ)(-)リードギター、リードボーカル、高音コーラス 更多>

小档案
沢田研二(ジュリー)(1948年6月25日-)リードボーカル、タンバリン、パーカッション
岸部修三(サリー、後に岸部一徳に改名)(1947年1月9日-) リーダー、ベースギター、低音コーラス、ボーカル
加橋かつみ(トッポ)(1948年2月4日-)リードギター、リードボーカル、高音コーラス
森本太郎(タロー)(1947年11月18日 - )リズムギター(加橋かつみ脱退後はリードギター)オルガン、ピアノ
瞳みのる(ピー) ドラムス(1946年9月22日-)
岸部シロー(シロー)(1949年6月7日-)リズムギター、タンバリン、ボーカル
1969年に加橋かつみが脱退し、岸部修三の弟であるシローが加入する。
小简介
原型は沢田研二を除く4人で1965年に京都で結成された「サリーとプレイボーイズ」。その後当時「サンダース」で活動していた沢田研二が加入、バンド名も「ファニーズ」に改称する。
当時、メンバー全員がファンクラブに加入していたザ・スパイダースの田邊昭知より「上京するならスパイダクション(現田辺エージェンシー)へ来ないか」と誘われた事もあった。
大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で共演したブルージーンズの内田裕也から声を掛けられたことがきっかけでナベプロ(渡辺プロダクション、現在のワタナベエンターテインメント)に所属。 1966年11月9日、新幹線こだまで上京。11月15日、初出演のテレビ番組「ザ・ヒットパレード」(CX系列)収録当日、関西出身ということからすぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられる。
初のテレビ出演では、アメリカ本国に於いてモンキーズに次ぐアイドル人気で元祖パンクロックバンドであるポールリビアとレイダースの『KICKS』を演奏。
1967年2月5日発売のシングル『僕のマリー』(1966年12月の録音時点でのタイトルは『マリーの想い出』)でデビュー。この頃メンバーのニックネームが決まり、沢田は女優ジュリー・アンドリュースから「ジュリー」と名乗るようになる。岸部は背が高かったことから、リトル・リチャードのシングル『のっぽのサリー』にかけて「サリー」、森本は本名から「タロー」、加橋はトッポ・ジージョに似ていることから「トッポ」、瞳はキューピーに似ていることから「ピー」と呼ばれた。セカンド・シングル『シーサイドバウンド』、サード・シングル『モナリザの微笑』で一気にマスメディアからクローズアップされ、折りからのグループ・サウンズ(GS)ブームも相まって、ザ・タイガースは瞬く間にトップ・アイドルへと躍り出る。
1968年8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー~真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。11月25日には、トータル・コンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』[4]を発売し、社会現象とまでいわれた圧倒的な人気の中、ザ・タイガースはGSブームの頂点に立つ。
しかし、1969年3月に加橋かつみがザ・タイガースを脱退(所属事務所の演出による「加橋失踪」という茶番劇で、後に事務所側は謝罪会見を開いた)。事務所のシナリオ通りに新メンバーとして岸部の弟・岸部シローが加入するも、この頃から急速に音楽シーンが多様化、GSブームも退潮の兆しを見せ始める。そんな中、12月1日に沢田が初のソロ・アルバム『JULIE』を発売し大好評を博す、しかしこの頃からグループとしての活動よりもメンバーのソロ活動が中心となっていく。
1970年春には日本万国博覧会々場にて「ザ・タイガース・ショー」を開催し好評を博すなど根強い人気を保つものの12月7日、ザ・タイガースは解散を表明。翌1971年1月24日、日本武道館における「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を事実上の解散コンサートとして、ザ・タイガースは解散する(武道館では以前、新曲発表会を開いているので初演ではない)。