RCサクセション

简介: 小档案
忌野清志郎 : ボーカル、ギター / 1968年〜1991年
小林和生(林小和生、リンコ・ワッショー等ともクレジット): ベース、コーラス / 1968年〜1991年
破廉ケンチ:ギター、コーラス / 1968年〜1977年
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小档案
忌野清志郎 : ボーカル、ギター / 1968年〜1991年
小林和生(林小和生、リンコ・ワッショー等ともクレジット): ベース、コーラス / 1968年〜1991年
破廉ケンチ:ギター、コーラス / 1968年〜1977年
仲井戸”CHABO”麗市 : ギター、ボーカル、コーラス / 1978年〜1991年
新井田耕造 : ドラム / 1978年〜1990年
小川銀次 : ギター / 1979年〜1980年
Gee2wo(ゴンタ2号、G2、柴田義也ともクレジット): キーボード、コーラス / 1980年〜1990年(正式メンバーとなる前に数年サポートメンバーを務めている。)
春日博文 : ギター、ドラム / 1978年および1990年~1991年
厚見玲衣 : キーボード / 1990年~1991年
小简介
RCサクセション(アールシーサクセション、RC SUCCESSION)は、日本のロックバンド。
忌野清志郎をフロントマンとし、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど日本語ロックの成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。実際、RCサクセション (以下、特段の理由がない限り「RC」と略す。) に影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。
また、彼らが発信するファッションや言動などは音楽業界にとどまらず若者の間でサブカルチャー的存在とまでなり、1980年代を中心にまさに時代を席捲した。
大事件
1966年、中学の同級生だった忌野、小林、破廉の3人でバンド「ザ・クローバー」を結成する。
1967年、高校進学によりザ・クローバー解散。忌野と小林は、上級生の武田清一(のちに「日暮し」でデビュー)を迎えて「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー (「クローバーの残党」の意)」を結成。初めてギャラをもらう仕事をする。
1968年、「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」が自然消滅した後、破廉がバンドに戻りバンド名を「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション (「クローバー〜からの継続」の意)」の省略形から「RCサクセション」と命名する[2][3]。RCサクセション誕生。
1969年、テレビ番組「ヤング720」(TBS系)のオーディションに合格。続いて8月29日、東芝主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」オーディションで第3位に。この模様を収録したオムニバス盤が初めての公式音源となる。収録曲は「泥だらけの海」。
1970年、「宝くじは買わない」で東芝音工(現東芝EMI)よりシングルデビュー。
1971年、RCが活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「青い森」で当時フォークグループ古井戸として活動していた仲井戸麗市と出会う。
1972年、ラジオ番組「ハロー・パーティ」「バイタリス・フォーク・ビレッジ (後に、『ライオン・フォーク・ビレッジ』に改題)」 などへの出演を始める。3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。1stアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。
1974年、当時のマネージャー奥田義行が事務所 (ホリプロダクション)に造反、独立してプロダクション「りぼん」を設立。RCはその騒ぎに巻き込まれ、ホリプロ内で仕事を干される。
1976年、ホリプロダクションから「りぼん」へ移籍。前年にすでに制作済みだった3rdアルバム「シングル・マン」がようやくリリースされるも、1年後に廃盤となってしまう。破廉は精神状態が不安定になり、ギターが弾けなくなる。
1977年、破廉が正式脱退。
1978年、春日がメンバーとして参加し、フォーク形態からロック / R&B形態へとバージョンアップされる (当時は、その衝撃の大きさからマスコミでは「パンク・ロック」と評されることが多かった)。さらに、新井田、仲井戸が正式に加入し、RCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成する。忌野は髪を短く切って逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。
1979年、春日に替わって小川が加入。RCはそのライブパフォーマンスが評判となり、マスコミでたびたび取り上げられるようになる。ジョニー・ルイス&チャーの前座として初めて日本武道館のステージに立つ。
音楽評論家の吉見佑子らが3rdアルバム「シングル・マン」の再発売を懇願するため「シングルマン再発実行委員会」を発足、ポリドールとの折衝が繰り返された結果、自主制作というかたちで300枚限定で異例の再発売が決定する。
1980年、渋谷のライブハウス「屋根裏」で4DAYSライブを開催。のべ800人の観客を動員し、同ライブハウスの動員記録を打ち立てる。渋谷公会堂でのシーナ&ロケッツ、バウワウとのジョイントライブも約2000人の観客動員を達成、RC人気に火がつく。「シングル・マン」が正式に再発売される。
エレキ化後のデビュー盤となる “RHAPSODY” をリリース、半年以上のロングランヒットとなる。同アルバムリリースと前後し、小川が脱退。替わって、それまでサポートメンバーとして参加していたGee2woが正式メンバーとなる。
1981年、初の日本武道館単独公演。この年を始めとしてその後10年間連続で武道館クリスマスライブを行う。この年はその他にも年間100本近いライブを行う。[4]
1982年、忌野が坂本龍一(当時イエロー・マジック・オーケストラ)と組んで発表したシングル「い・け・な・いルージュマジック」が資生堂82春のキャンペーンソングとしてヒット。PVでは、どぎつい化粧をして男同士でキスをするなど過激なパフォーマンスを展開、時代を席巻する。 RCとしては同年、サム・ムーア、チャック・ベリーらとのジョイントライブを開催(アルバム『THE DAY OF R&B』収録)。ロンドン・レコードに移籍。自身のレーベル「BARCA」を設立。
1985年、事務所「りぼん」から独立。自分たちの事務所「うむ」を設立。西武劇場(現PARCO劇場)で独立記念コンサート「スーパーエイプリルフール」を開催(泉谷しげる、坂本龍一、矢野顕子、三浦友和らがゲスト参加)。
1988年、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。同シングルとアルバムは結局古巣キティレコード(現ユニバーサルミュージック)から発売され、RCとして初のチャート1位を獲得する。
1989年、HARD TIMES LIVE ツアーはリリースされていない新曲中心という異例の構成で行われる。また、レコード会社に対する不満からステージ上で「録音自由化」を宣言。
1990年、Gee2wo、新井田が相次いで脱退。現段階でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。続くツアーは札幌、仙台、福岡、名古屋、大阪および日本武道館のみ行い、以降(翌年)のツアーはすべてキャンセルされる。
1991年1月、無期限活動休止に入る。事務所「うむ」は解散。

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