五木ひろし

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五木 ひろし(いつき ひろし、本名:松山 数夫〈まつやま かずお〉、- ) は、日本の歌手。作曲家、俳優でもある。血液型はA型。2007年、紫綬褒章を受章した。福井県三方郡美浜町出身。所属事務所はアップフロントエージェンシー。
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小档案
五木 ひろし(いつき ひろし、本名:松山 数夫〈まつやま かずお〉、1948年3月14日- ) は、日本の歌手。作曲家、俳優でもある。血液型はA型。2007年、紫綬褒章を受章した。福井県三方郡美浜町出身。所属事務所はアップフロントエージェンシー。
小简介
美空ひばりに大変可愛がられ、その美空ひばりにして「五木ひろしが男で(“男に生まれてきて”という意)よかった!」と言わしめるほどに五木の歌唱力と人気を高く評価していたエピソードはよく知られている。
コブシ(小節)とヴィブラート、ノン・ヴィブラート、そして地声とファルセット(裏声)を巧みに使い分け、精密機械のごとく声を震わせる独特で屈指の歌唱技術を持つ。
演歌のみに留まらず、歌謡曲、バラード、R&B、ポップス、フォーク、ニューミュージック、クラシカル、ジャズ、シャンソン、カンツォーネ、ロック、ラテン、民謡、童謡などあらゆるジャンルの作品を歌いこなしてきた。
艶歌など新しい分野を生み出し、演歌の領域を拡げた。
とりわけ、女ごころや叙情をテーマにした曲に定評がある。
今日まで滞ることなくコンスタントにオリジナル・ヒットを生み出し続けてきた。還暦を迎えているが、改名前の不遇時代を除き、極端にスランプと思われる時期は見当たらない。
2008年3月13日(還暦を迎える前日)、五木は思い出深い曲として自身の年代毎に、20代では「夜空」、30代では「おまえとふたり」、40代では「暖簾」、50代では「ふりむけば日本海」を挙げた。
古賀メロディーをはじめ、歌い継がれてきた数々の名曲を《次代に受け継ぐ》という大きな使命も担い、それを果たしてきた。
海外公演やオーケストラとの共演など新しい試みにも果敢に挑戦、《後進への指標》ともなるべく率先垂範をしてきた。
ショーやリサイタル、コンサート等の公演チケット価格(クリスマス・ディナーショー2008年実績:¥50,000.-)は例年、最高峰を誇る。
ギターや太鼓の他、多くの種類の楽器を演奏し、一級の腕前を披露している。
下積み時代(1950年代)、松方弘樹と席を並べて歌を学んでいたが、五木の歌声を聞いているうちに自信を無くした松方がやがて歌手になることを諦めて、1960年に東映から映画俳優としてデビューに至ったというエピソードを持つ。
大事件
1960年代
1964年、第15回コロムビア全国歌謡コンクールにて優勝。作曲家の上原げんとにスカウトされ、内弟子となる。「歌うミスター平凡」(雑誌『平凡』主催)に選抜される。
1965年6月、“松山まさる”を芸名として、コロムビアから「新宿駅から/信濃路の果て」でデビュー。シングルを計6枚発売するもヒットに至らず、1967年にポリドールへ移籍。
1967年4月、“一条英一”に改名して、ポリドールから「俺を泣かせる夜の雨/流れ星(B面は愛田健二)」で再デビュー。シングルを計3枚発売するもヒットに至らず、1968年、契約を解除される。
1969年、銀座で弾き語りをしているところを作曲家の遠藤実にスカウトされ、ミノルフォンと契約。12月、“三谷謙”に再び改名して、「雨のヨコハマ/東京 長崎 札幌」で再デビューを果たすもヒットに至らず。
デビューしてから約5年間の間に2度も芸名を変更するなど不遇の時代を過ごす。
1970年代
1970年
1970年、よみうりテレビ制作のオーディション番組『全日本歌謡選手権』に、歌手生命のすべてを賭けてミノルフォン専属のプロ歌手“三谷謙”として出場。第1週挑戦時には、「これで駄目なら、ふるさとの福井に帰って農業をやる」と悲壮な覚悟のほどを語っているが、最終的には10週連続で勝ち残り、グランドチャンピオンに輝く。これにより、レコード歌手として再デビューできる権利を獲得。同番組の審査員であった作詞家の山口洋子と、作曲家の平尾昌晃に師事。プロデューサーには山口が就任。芸能プロダクション(事務所)はキックボクシング・ジムであった野口プロモーション(社長:野口修)と契約を結び、同プロモーション所属の芸能人第1号となる。
1971年
1971年3月、新しい芸名を“五木ひろし”として、ミノルフォンから再デビューを果たす。苗字の「五木」は山口洋子が五木寛之から頂戴した。再デビュー・シングルの「よこはま・たそがれ」で山口は単語の羅列ながらも女ごころを表現した詞を書き、平尾昌晃がそれにモダンでソフトな演歌調の曲を付けた。ロカビリー歌手から作曲家に転身した平尾にとって、初めての演歌作品でもあった。
マイクを左手で持ち、右手は拳を握り締め、腰をシェイクさせてリズムを採る独特の歌唱スタイルは、同じ野口プロモーションに所属していたキックボクサー・沢村忠の“ファイティング・スタイル”からヒントを得たもので、物真似をされるほどに五木の代名詞として定着してゆく。五木は「“拳”は演歌の“コブシ(小節)”をかけている」と語っている。
「よこはま・たそがれ」はオリコン・シングル・チャートで、最高位1位、登場週数46週、65万枚に迫る売上げを記録(以下、文中のチャート・データはすべてオリコン・シングル・チャートに基づく)。第2弾シングルのマドロス演歌「長崎から船に乗って」も最高位4位、登場週数28週、45万枚に迫る売上げを記録。
この年、第4回日本レコードセールス大賞男性新人賞を受賞。また「よこはま・たそがれ」では第4回新宿音楽祭金賞、第2回日本歌謡大賞放送音楽賞(初受賞)、第13回日本レコード大賞歌唱賞(初受賞)を受賞し、念願であったNHK紅白歌合戦(第22回)への初出場も果たす。以降、2008年現在まで連続出場を継続中。
1972年
1972年、第3弾シングル「かもめ町みなと町」は前作同様にマドロス演歌ながらも、敢えてアイドル歌謡を中心に手懸けて実績を残しつつあった筒美京平を作曲に迎え、最高位11位、登場週数18週、15万枚を超える売上げを記録。
第4弾シングルとして藤本卓也を作曲に迎えた「待っている女」は、ポップス演歌とプロモーションされ、最高位6位、登場週数22週、25万枚を超える売上げを記録。この曲で第3回日本歌謡大賞放送音楽賞を2年連続2回目の受賞。
ポップス演歌第2弾となる「夜汽車の女」は、前作の続編的性格を持ち、スマッシュ・ヒットに終わる。この曲で第14回日本レコード大賞歌唱賞を2年連続2回目の受賞。
藤田まさとを作詞に迎えた股旅演歌「旅鴉」は、テレビ時代劇ドラマ『長谷川伸シリーズ』主題歌として発売になったもので、テレビ歌謡番組などでは積極的に披露してはいないにも拘らず、最高位19位、登場週数32週、15万枚を超える売上げを記録。
2作続いたポップス演歌から脱却し、年の暮れに発売になった「あなたの灯」は五木の持ち味が最大限に活かされたリズム演歌であり、翌1973年にかけて最高位5位、登場週数26週、30万枚を超える売上げを記録。ファンの裾野を拡げ、その後の方向性を決定づけた作品となる。
1973年
1973年には短い周期で「霧の出船」、「ふるさと」、「夜空」と立て続けに新曲が投入されたが、そのすべての作品をヒットさせるなど1年間を通じて活躍。「霧の出船」は最高位13位、登場週数23週、25万枚に迫る売上げを、「ふるさと」は最高位11位、登場週数43週、40万枚に迫る売上げを、「夜空」は最高位4位、登場週数31週、45万枚に迫る売上げをそれぞれ記録。
叙情演歌の「ふるさと」はサビの部分を女性コーラスだけでレコードに吹き込んでいたが、テレビやステージなどでは五木が女性コーラスを従えて歌い、これを改善している。「狼のバラード」はテレビドラマの主題歌として発売になったものであり、テレビ歌謡番組などでは積極的に披露してはいない。ただし、そのB面に収録された「道」は、主力であったポップス演歌の「夜空」と並行してテレビ歌謡番組でも時折披露している。
ほぼ毎日放送されていた歌謡番組は大半が生放送であったため、連日各放送局を掛け持ちで出演するなど多忙を極める。その都度、特徴的な人懐っこい“細い目”を司会者などから再三茶化されるが、それを軽妙に切り返して笑いを誘うなど、コミカルな部分をも持ち合わせていた。物真似番組にも数多く出演し、チャンピオンに度々選抜される。テレビに限らず、ラジオ、新聞、雑誌などマスコミ各社からひっぱりだことなるなど人気を博す。
「ふるさと」で第4回日本歌謡大賞放送音楽賞を3年連続3回目の受賞、「夜空」で第15回日本レコード大賞を初受賞。大賞を巡っては、沢田研二「危険なふたり」との一騎打ちになり、日本歌謡大賞こそ逃したものの、悲願であった日本レコード大賞を手中に収める。これにより実力派歌手としての地位を確固たるものにする。以後毎年のように頂点をうかがえる位置につけるなど“賞レースの常連”として一目置かれる存在になる。
1974年
1974年、「夜空」で第11回ゴールデン・アロー賞音楽賞を受賞。
バラード演歌「別れの鐘の音」は、最高位15位、登場週数18週、15万枚を超える売上げを記録。この曲で第3回東京音楽祭国内大会ゴールデン・カナリー賞(初受賞)、世界大会外国審査員団賞(演歌系歌手としては初出場・初受賞)、第1回FNS歌謡祭'74音楽大賞上期最優秀視聴者賞(初受賞)を受賞。テレビやステージでは壮大感をより強調するため、サビの部分だけレコードに吹き込んだ時の歌い方をせずにロング・トーンで締めている。ステージでは締めくくりの曲としてたびたび使われている。
五木はデビュー当初から古賀政男の「古賀メロディーを自分の持ち歌にしたい」と熱望していた。古賀がコロムビア専属作曲家であるという“レコード会社間の壁”に阻まれていたが、この年「浜昼顔」でようやく五木の熱意が実った。この曲は1936年7月ごろに藤山一郎に提供した「さらば青春」にリメイクを施し、1955年12月、青木光一に「都に花の散る夜は」として提供したものに再度リメイクを施し、詩人の寺山修司が題と詞を付け直したものである。前述の「旅鴉」を除き、山口洋子以外のゲスト作詞家を迎え入れたのは自身ではこれが初めて。最高位5位、登場週数29週、40万枚に迫る売上げを記録。この曲で第5回日本歌謡大賞放送音楽賞を4年連続4回目の受賞。
「明日の愛」は、テレビドラマの主題歌として発売になったもの。
「みれん」は最高位6位、登場週数22週、35万枚を超える売上げを記録。この曲で第2回FNS歌謡祭'74音楽大賞下期最優秀視聴者賞(2期連続2回目)、第2回FNS歌謡祭'74音楽大賞年間最優秀グランプリ(初受賞)、第16回日本レコード大賞最優秀歌唱賞(初受賞)を受賞。
第7回日本レコードセールス大賞LPゴールデン賞を受賞。
日本レコード大賞と日本歌謡大賞とでその年の受賞曲が割れるという、同等規模のヒット曲を連発する歌手に特有の現象が1972年から3年連続して発生し、五木と関係者らを苦悩させる。大賞を巡っては、五木のほか、森進一、沢田研二、布施明の当時“四天王”と呼ばれていた同い年の実力派歌手4人の間で争奪戦が繰り広げられていたが、五木を除く3人が全員渡辺プロダクションに所属していたこともあり、森進一と五木の二人に候補が絞られた。特に日本レコード大賞を巡る森と五木の一騎打ちは熾烈を極め、当時の事情を知る関係者の間では、“日本レコード大賞史上最大の激戦”として語り草になっている。歌手としての力量やレコードの売上げ、一年間を通しての活躍度等は“互角”との評価であったが、当時の審査システムが“無記名投票”を採用していたこともあり、事態は次第に両陣営間に於ける“場外バトル”の様相を呈していく。当時の新聞や雑誌には、一連の騒動について、“買収”や“札束が飛び交う”、“札束攻勢”などの記述がある。 最終的には、前年に大賞を獲得している五木がまだ受賞していない「最優秀歌唱賞を欲しい!」と宣言し照準を変更することにより、大賞候補として1968年から1971年まで4年連続でノミネートされながらもすべて逃しているところから「今度こそは何が何でも大賞を!」と意気込む森に大賞を譲ったものといわれている。
1975年
1975年、師匠である平尾昌晃から巣立ち、本格的に外部の作曲家の作品を歌い始める。
森田公一を作曲に迎えたポップス演歌「哀恋記」は、軽いアクションが話題を集め、最高位10位、登場週数16週、15万枚を超える売上げを記録。この曲で第3回FNS歌謡祭'75音楽大賞上期最優秀視聴者賞を3期連続3回目の受賞。
音頭もの「さくら音頭」は、桜の季節に合わせて発売になり、和服姿で披露。1934年に各社競作で発売になった同名異曲が存在することから紛らわしいとして、後年「ひろしのさくら音頭」へ改題になる。
代表作となった「千曲川」(後述)に次ぐ、猪俣公章の作曲による第2弾「ふたりの旅路」は、“五木ひろしが初めて取り組む本格演歌”と宣伝され、そのレコードにはジャケット(裏面に歌詞がある)のほか、山口洋子と猪俣の挨拶文を収めた小カードが追加挿入されるほどの力の入れようであった。最高位14位、登場週数22週、20万枚を超える売上げを記録。
第1回日本演歌大賞を初受賞。この年は布施明「シクラメンのかほり」が席捲したため、2回目の日本レコード大賞を獲得することは叶わず。
再デビューした後に発表されたすべての新曲をこれほどまでに長期にわたってヒットさせ続けることは、アイドル歌手を除くと前例がなく、テレビやラジオ、新聞、雑誌などで盛んに取り上げられる。
「千曲川」
この年の勝負作として投入された旅情演歌「千曲川」はもともと猪俣公章が春日はるみ(新人時代の川中美幸)の不振を打開するために用意した作品で、星野哲郎によってタイトル(「笛吹川夜曲」)も詞も既にでき上がっており、LPに収録された。 しかし、かねてより五木の“NHK紅白歌合戦での初トリと2回目の日本レコード大賞獲り”を願っていた山口洋子は、この三拍子のメロディーの美しさに惚れ、猪俣から略奪に近い形でこれを譲り受ける。 信濃川と名前を変え滔滔(とうとう)と日本海に注ぐ“日本一の大河”千曲川を詠った明治の文豪・島崎藤村の「千曲川旅情の歌」に感銘を受けた山口は、これを「千曲川」に改題し、敢えて現地には赴かずに東京に居ながら現地の情景を憧憬にも似た想いで詞を練ったという。その際、演歌にありがちな愛や色恋や情の部分を廃した。 これらが功を奏し、最高位6位、登場週数42週、45万枚を超える売上げを記録、五木の代表作のひとつとなる。
この曲で第4回東京音楽祭国内大会ゴールデン・カナリー賞を2年連続2回目の受賞、世界大会へ2年連続2回目の出場。また、第4回FNS歌謡祭'75音楽大賞下期最優秀視聴者賞(4期連続4回目)、第1回日本テレビ音楽祭グランプリ、第6回日本歌謡大賞放送音楽賞(5年連続5回目)、第6回日本歌謡大賞放送音楽特別連盟賞(受賞理由:5年連続での放送音楽賞受賞に対して)、第17回日本レコード大賞最優秀歌唱賞(2年連続2回目。通算・連続ともに歴代第1位)をそれぞれ受賞。初めての白組トリを務めた第26回NHK紅白歌合戦でも歌われた。
五木はこの曲について「音域が意外に広く、迂闊には歌えない難しい曲」と語っている。 山口は近年「(自身の作品の中で)今でも“千曲川”が一番好きです」と述懐している。 後年、この歌碑が長野県戸倉上山田温泉・萬葉公園内の千曲川を臨むことのできる位置に建立される。
1976年
猪俣公章の作曲による第三弾「愛の始発」は、最高位10位、登場週数21週、25万枚を超える売上げを記録。
この年の勝負作として投入した「北酒場」は、森進一「襟裳岬」のヒットに触発された形で“フォークの神様”と評価されていた岡林信康を作曲に迎え、五木が初めて取り組んだフォーク作品であるが、最高位13位、登場週数17週、15万枚を超える程度の売上げを記録するに留まり、期待されたほどの大きな成果を収めることはできず。
五木は人気者であったにも拘らず、これまでテレビのコマーシャル・メッセージ(CM)に出演したことがなく、“CM最後の大物”との異名をとるほどに稀有な存在であったが、ついに「味の素」バラエティギフトのCMに出演。その契約金は当時、歴代最高額と云われている。 「旅人」はCMソングとして発売されたものであり、ヒットさせることを目指した作品ではないため、テレビ歌謡番組等では積極的に披露してはいない。
原点へ立ち返るとして、久々に平尾昌晃を作曲に起用した「どこへ帰る」は最高位16位、登場週数19週、15万枚を超える売上げを記録。
ラスベガス公演をラスベガス・ヒルトンに於いて興行。日本人歌手としては初めてのことであり、海外公演の先駆けとなる。
「どこへ帰る」で第2回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭ゴールデングランプリを初受賞。
かねてより日本レコード大賞歌唱賞と日本歌謡大賞放送音楽賞をそれぞれ十年連続して受賞することを最大の目標として掲げていただけに、記録がともに途絶えてしまったことで、五木と関係者等はそのショックに拉がれる。
第27回NHK紅白歌合戦では「愛の始発」で2年連続2回目となる白組トリを務める。
1977年
心情演歌「風の子守唄」を最後に、師匠である山口洋子から巣立ち、本格的に外部の作詞家の作品を歌い始める。
その第一弾「灯りが欲しい」はこの年の勝負作と位置づけ、藤田まさとを作詞に迎える。 これまで一貫して女ごころを歌ってきたのを一転、初めて男ごころを取り上げ、最高位14位、登場週数23週、20万枚を超える売上げを記録。
第28回NHK紅白歌合戦では「灯りが欲しい」で3年連続3回目となる白組トリ、初めての大トリを務める。
1978年
ポップス演歌「潮どき」は、最高位17位、登場週数14週、10万枚を超える売上げを、「あしたも小雨」は、最高位16位、登場週数15週、15万枚に迫る売上げをそれぞれ記録。
「熱愛」は本間千代子(表記:あたらしかずよ)を作詞に迎えたことで話題を集めるが、意欲作であり、且つこの年の勝負作であった割りには振るわず。
「熱愛」で第20回日本レコード大賞古賀政男記念賞を受賞。 尚、美空ひばりは受賞を辞退している。
日本レコード大賞は歌唱力のない歌手でも大賞が獲得できるようにとの配慮から歌唱賞を廃止し、代わりに金賞が新設される。
1979年
独立を果たす。
独立後第一弾「おまえとふたり」は、古賀政男の弟子でギタリストの木村好夫を作曲に迎える。 不安を抱きながらの再出発となるが、折りからのカラオケブームに乗り、最高位3位、登場週数41週、90万枚を超える売上げを記録。 最終的にはミリオン・セラーに至り、自身では最大のヒット曲となる。
「おまえとふたり」で第21回日本レコード大賞金賞を初受賞。
第30回NHK紅白歌合戦では「おまえとふたり」で4回目となる白組トリを務める。
1980年代
1980年
前年からの大ヒット作「おまえとふたり」に引き続き、「倖せさがして」が最高位4位、登場週数28週、50万枚に迫る売上げを、「ふたりの夜明け」が最高位10位、登場週数30週、35万枚を超える売上げをそれぞれ記録。 一年間を通じて活躍。
第6回日本演歌大賞を2回目の受賞。
「ふたりの夜明け」で第1回古賀政男記念音楽大賞優秀賞を受賞。
「ふたりの夜明け」で第9回FNS歌謡祭音楽大賞最優秀グランプリを2回目の受賞。
「ふたりの夜明け」で第6回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭ゴールデングランプリを2回目の受賞。
「ふたりの夜明け」で第11回日本歌謡大賞放送音楽賞を6回目の受賞。
「ふたりの夜明け」で第22回日本レコード大賞金賞を2年連続2回目の受賞。
第13回日本レコードセールス大賞シングルゴールデン賞を受賞。
大賞を巡り、“五八戦争”と呼ばれるほどに熾烈な争奪戦を八代亜紀「雨の慕情」と繰り広げるが、オリコンによる年間売上げでは大幅に上回りながらも、日本レコード大賞と日本歌謡大賞を獲得することは叶わず。
第31回NHK紅白歌合戦では「ふたりの夜明け」で2年連続5回目となる白組トリを務める。
1981年
「港・ひとり唄」は最高位21位、登場週数22週、20万枚に迫る売上げを記録。
出身地である福井県の一市民・絽端久倫が作った詩に当時はまだ駆け出しであった新鋭の弦哲也を起用して曲を付けた企画もの旅情演歌「越前有情」が一定の評価を得たことから、この年の勝負作にも作曲を弦哲也で臨むことに踏み切る。 こうして誕生した「人生かくれんぼ」は最高位18位、登場週数33週、30万枚に迫る売上げを記録。 これにより作曲家・弦哲也への評価が高まり、作曲の依頼が急激に増えるようになる。 後年、「越前有情」の歌碑が越前海岸国定公園の景勝地・呼鳥門の北側に建立される。
「港・ひとり唄」で第10回FNS歌謡祭音楽大賞最優秀視聴者賞を受賞。
「人生かくれんぼ」で第12回日本歌謡大賞放送音楽賞を2年連続7回目の受賞。
「人生かくれんぼ」で第23回日本レコード大賞金賞を3年連続3回目の受賞。
1982年
「愛しつづけるボレロ」は最高位19位、登場週数19週、10万枚を超える売上げを記録。
「愛しつづけるボレロ」で第1回メガロポリス歌謡祭演歌大賞を初受賞。
「契り」は映画(東映系)「大日本帝国」の主題歌として自身では初めての映画タイアップ作品である。其の他、改名後では初めて自らが作曲を手懸けたシングル曲であること、非・演歌であること、これまでライバル関係にあると目されていた売れっ子作詞家の阿久悠と初めてタッグを組んだことなど話題を集め、最高位20位、登場週数30週、20万枚を超える売上げを記録。
「居酒屋」は元々、五木のLPにソロで収録されていた曲であるが、同じミノルフォンに所属していた木の実ナナがそのカヴァー・シングルをデュエット企画で発売するにあたり、デュエット相手として五木が指名されたという経緯がある。 自身では初めてのデュエット・シングルであり、最高位29位、登場週数48週、20万枚に迫る売上げを記録。 現在でも、カラオケでは男女デュエット・ソングの定番として人気が高い。
非公式シングルとして発表になった「恋の大阪」は、1998年11月、八島義郎がセルフカヴァーしている。
第8回日本演歌大賞演歌スター賞を受賞。
「夢海峡」で第3回古賀政男記念音楽大賞優秀賞を受賞。
「契り」で第15回日本作詩大賞を阿久悠(歌:五木ひろし)が受賞。
「契り」で第11回FNS歌謡祭音楽大賞最優秀歌唱賞を受賞。
「契り」で第8回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭ゴールデングランプリを3回目の受賞(歴代単独第1位)。
「契り」で第13回日本歌謡大賞放送音楽賞を3年連続8回目の受賞。
「契り」で第24回日本レコード大賞金賞を4年連続4回目の受賞。
1983年
「あなた」は自ら作曲を手懸け、最高位26位、登場週数21週、15万枚に迫る売上げを記録。
谷崎潤一郎が著作した同名小説に材を得た文芸艶歌(つやうた)「細雪」は最高位9位、登場週数33週、45万枚に迫る売上げを記録。 これにより、“艶歌”が演歌の新しい領域(分野)として確立する。 五木は後年、「艶歌は特に歌唱が難しい」と語っている。
「細雪」で第12回FNS歌謡祭音楽大賞最優秀視聴者賞を受賞。
「細雪」で第14回日本歌謡大賞優秀放送音楽賞を4年連続9回目の受賞。尚、優秀放送音楽賞は放送音楽賞が改称されたものである。
「細雪」で第25回日本レコード大賞特別金賞を5年連続5回目の受賞。尚、この年のみ制定された特別金賞は、金賞と同格として取り扱われる。
1984年
4月、前述の「浜昼顔」と同様に、五木の熱意が実り、石本美由起がコロムビア専属作詞家であるという“レコード会社間の壁”を乗り越えて、旅情艶歌「長良川艶歌」が誕生。 長良川の風物詩である鵜飼いを取り入れるなど、石本美由起が作詞家としての信条であるという“喚起力のある言葉”と“音感的に綺麗な言葉”が存分に活かされた作品に仕上がり、話題を集める。
8月、大作映画(東宝系)「おはん」(原作:宇野千代/監督:市川昆/出演:吉永小百合、石坂浩二、大原麗子、ミヤコ蝶々、他)の封切りに合わせ、同映画主題歌としてタイアップした艶歌「おはん」は、両A面扱いとしてヒット中の「長良川艶歌」のカップリングに収められ、装いも新たに再発売になる。 強力盤「長良川艶歌/おはん」は最高位10位、登場週数47週、65万枚を超える売上げを記録。 後年、「長良川艶歌」の歌碑が長良川畔の川灯台脇に建立される。
「ふたりのラブソング」は都はるみとのデュエット企画のために五木が自ら作曲を手懸けており、“大物歌手同士のコンビ”などと話題を集める。
第10回日本演歌大賞演歌名誉歌手賞を受賞。
「長良川艶歌」で第13回FNS歌謡祭音楽大賞最優秀グランプリを3回目の受賞(歴代単独第1位)。
「長良川艶歌」で第15回日本歌謡大賞を受賞。
「長良川艶歌」で第26回日本レコード大賞を2回目の受賞(歴代第2位)。
大賞を巡り、中森明菜「十戒(1984)」「北ウイング」との一騎打ちを制し、圧勝。
1985年
「そして…めぐり逢い」は最高位12位、登場週数38週、25万枚を超える売上げを記録。
「そして…めぐり逢い」で第4回メガロポリス歌謡祭演歌大賞を2回目の受賞。
「夢しずく」は最高位17位、登場週数28週、20万枚に迫る売上げを記録。
「そして…めぐり逢い」で第11回日本演歌大賞を3回目の受賞。
「そして…めぐり逢い」で第14回FNS歌謡祭音楽大賞最優秀視聴者賞を受賞。
「そして…めぐり逢い」で第16回日本歌謡大賞優秀放送音楽賞を6年連続11回目の受賞(通算では歴代単独第1位、連続では沢田研二と並び歴代第1位)。
「そして…めぐり逢い」で第16回日本歌謡大賞最優秀放送音楽賞を受賞。
「そして…めぐり逢い」で第27回日本レコード大賞金賞を7年連続7回目の受賞。
1986年
大阪を舞台とした浪花演歌「浪花盃」は最高位23位、登場週数36週、20万枚を超える売上げを記録。
「浪花盃」で第12回日本テレビ音楽祭優秀賞受賞。
「浪花盃」で第15回FNS歌謡祭音楽大賞最優秀視聴者賞を受賞。
「浪花盃」で第28回日本レコード大賞金賞を8年連続8回目の受賞。
ポップス「当日・消印・有効」は、テレビドラマ(テレビ朝日系)「私鉄沿線97分署」第3期主題歌として発売になったが、その目的のためだけに五木を中心とした“ブービーズ”なる覆面バンドが結成されたことで話題を集める。 レコード・ジャケットは、メンバー全員の両目の部分だけピックアップした写真がデザインされている。 生演奏で一度だけ、テレビ歌謡番組(フジテレビ系)「夜のヒットスタジオ」で披露している。
1987年
アメリカ合衆国ニューヨーク公演をリンカーン・センターに於いて興行。
大作バラード「追憶」は最高位12位、登場週数45週、30万枚を超える売上げを記録。
「追憶」で第6回メガロポリス歌謡祭演歌大賞(男性部門)を3回目の受賞。
「追憶」で第13回日本演歌大賞演歌スター賞を受賞。
「追憶」で第8回古賀政男記念音楽大賞を受賞。
「追憶」で第16回FNS歌謡祭音楽大賞最優秀視聴者賞を受賞。
「追憶」で第29回日本レコード大賞金賞を9年連続9回目の受賞。
下馬評では3回目となる日本レコード大賞受賞はほぼ確実と云われていたが、対抗馬であった近藤真彦「愚か者」に一票差で惜敗。
第38回NHK紅白歌合戦では「追憶」で6回目となる白組トリ、2回目となる大トリを務める。
1988年
「港の五番町」は、ムード歌謡を主に歌っていたコーラス・グループの原みつるとシャネル・ファイブが1972年9月に発売したものの全く売れなかった作品であるが、これを復刻し(当時は“発掘”とプロモーションされた)、自身では初めてのカヴァー・シングルとして発売したところ、最高位12位、登場週数26週、20万枚に迫る売上げを記録。
「港の五番町」で第14回日本演歌大賞演歌スター賞を受賞。
「港の五番町」で第21回日本作詩大賞を阿久悠(歌:五木ひろし)が受賞。
「港の五番町」で第17回FNS歌謡祭音楽大賞最優秀視聴者賞を受賞。
「港の五番町」で第30回日本レコード大賞金賞を10年連続10回目の受賞(通算・連続ともに歴代単独第1位)。
第30回日本レコード大賞特別賞を初受賞(受賞理由(原文をそのまま掲載):昭和54年、「おまえとふたり」によって第21回日本レコード大賞「金賞」を受賞以来、「ふたりの夜明け」「人生かくれんぼ」「契り」「細雪」「長良川艶歌」「そして…めぐり逢い」「浪花盃」「追憶」そして本年度第30回の「港の五番町」と連続10回「金賞」を受賞するという偉業をなし遂げた。これは、優れた作品と、それをより生かす卓越した歌唱力との相乗効果の見事な結実であるとともに、その歌唱が10年間、大衆の大きな支持を獲得し続けたことを物語っている。)。
1989年
「面影の郷」は最高位29位、登場週数21週、10万枚に迫る売上げを記録。
5月、女優の和由布子と結婚。披露宴の規模は5億円と云われ、当時芸能界最高額。当時40歳。
「面影の郷」で第8回メガロポリス歌謡祭演歌大賞(男性部門)を4回目の受賞(歴代単独第1位)。
結婚とこれまでの数々の受賞実績等を踏まえ、歌手としては一定の成果を収めることができたと判断。 従前とは一線を画し、今後の活動方針について以下の趣旨を決意表明。
大賞に直結する各賞へのノミネートについては、後進に道を空けるため、今後はこれを辞退すること。但し、大賞候補の対象とはならない部門賞は除く。
今後はより熟成された作品を新曲として発表し、発売周期(サイクル)には拘らずにじっくり歌い込んでゆくこと。
従来どおり“現役歌手”として自身のオリジナル・ヒットを生み出し続けるということを前提に、今後は音楽文化の継承、後進の指導と育成、地域社会への貢献などにも目を向けること。
フォークシンガーの永井龍雲を作曲に迎えた「暖簾」を発売後は、約一年間次の新曲を発売せずこの曲に専念し、最高位26位、登場週数20週、10万枚に迫る売上げを記録。
演歌以外の様々なジャンルの音楽家にも出会い、歌の幅が拡がってゆく。
6月、「美浜・五木マラソン大会」を出身地の福井県三方郡美浜町で初めて開催。「美浜・五木ひろしマラソン大会」に改称され、以降も現在まで連続開催(年1回不定日)を継続中。
1990年代
1990年
船村徹を作曲に迎えた「心」は、北島三郎ばりの“ド演歌”であり、最高位17位、登場週数26週、15万枚を超える売上げを記録。
1991年
「財団法人 国際親善協会」の設立をプロデュース。
20周年ゴールド・シングルとして発売になった「おしどり」は長年連れ添う夫婦愛を描いた夫婦演歌であり、翌1992年(平成4年)にかけて最高位15位、登場週数42週、35万枚を超える売上げを記録。
第33回日本レコード大賞特別賞を“「財団法人 国際親善協会」及びそのプロデューサー五木ひろし”として2回目の受賞。
1993年
「べにばな」は最高位19位、登場週数29週、30万枚に迫る売上げを記録。
1994年
浪花演歌「浪花物語」は中村美律子とのデュエット企画であり、ふたりの台詞が織り込まれるなど話題を集める。
「汽笛」は最高位24位、登場週数28週、25万枚を超える売上げを記録。
第45回NHK紅白歌合戦では「汽笛」で7回目となる白組トリを務める。
1995年
自ら作曲を手懸けた「パパと遊ぼう」は、初めて童謡に挑戦したことで話題を集める。
「酒 尽々」は最高位22位、登場週数24週、20万枚に迫る売上げを記録。
『五木ひろしベストコレクション'94 女ひとり』で第9回日本ゴールドディスク大賞アルバム賞演歌・男性部門を受賞。
1996年
再び永井龍雲を作曲に迎えた「女の酒場」は最高位33位、登場週数36週、10万枚を超える売上げを記録。
『五木ひろし全曲集―酒 尽々』で第10回日本ゴールドディスク大賞アルバム賞演歌・男性部門を受賞。
1997年
「罪と罰」と「紫陽花」はスマッシュ・ヒット。
第48回NHK紅白歌合戦では「千曲川」で8回目となる白組トリ、3回目となる大トリを務める。 紅白歌合戦で出場した年より前に発売された曲を歌ったこと、再度同じ曲を歌ったことはいずれも、自身では初めてのことであるが、これは翌1998年に長野で開催される冬季オリンピックへ向けての“賛歌”として、同地を舞台としたこの名曲に白羽の矢が立てられたためである。
1998年
「千日草」は最高位42位、登場週数21週、10万枚に迫る売上げを記録。
「酒 ひとり」は最高位31位、登場週数22週、10万枚を超える売上げを記録。
「酒 ひとり」で第40回日本レコード大賞美空ひばりメモリアル選奨を受賞(受賞理由:三十年余に亘り第一線の地位を確保してきた業績に対して)。
第49回NHK紅白歌合戦では「酒ひとり」で2年連続9回目となる白組トリを務める。
1999年
「再り会い」は最高位31位、登場週数21週、10万枚に迫る売上げを記録。
2000年代
2000年
「山河」は小椋佳、堀内孝雄コンビにより中国を舞台とした大作に仕上がり、ミレニアム・シングルと銘打って発売になり、話題を集める。 中国楽器を採用したことと、スタンド・マイクを用いて歌唱したことでも知られる。
弟子の前田有紀がハロー!プロジェクトに正式メンバーとして加入するなど、後進の育成にも尽力。 ハロー!プロジェクトが堀内孝雄やつんく♂らと同じアップフロントエージェンシーに所属していたことから、以後、彼等との関係が深まる。
第51回NHK紅白歌合戦では「山河」で10回目となる白組トリ、4回目となる大トリを務める。
2001年
「おふくろの子守唄」は“母”をテーマに掲げた曲であることと、つんく♂がプロデュースしたことで話題を集めるが、母の急死以後は喪に服するとしてこの曲の歌唱を封印。
「逢いたかったぜ」はコロムビア時代の恩師である上原げんとが作曲、岡晴夫が歌い、1955年7月に発売になった同名ヒット曲をカヴァーしたものである。
2002年
自身のレコード会社「ファイブス・エンタテインメント」の設立を果たし、長年所属してきた徳間ジャパン・コミュニケーションズから移籍。メジャー・ディスリビューションはキングレコードが担当。
ファイブス・エンタテインメント移籍シングル第一弾「傘ん中」は最高位21位、登場週数28週、10万枚に迫る売上げを記録。
「愛のメリークリスマス」は堀内孝雄やハロー!プロジェクト(モーニング娘。など)とのデュエット企画であること、自身では初めてのクリスマスものであることなどから話題を集める。
「傘ん中」で第35回日本作詩大賞を阿久悠(歌:五木ひろし)が受賞。
「愛のメリークリスマス」で第44回日本レコード大賞企画賞を受賞。
第53回NHK紅白歌合戦では「おふくろの子守唄」で11回目となる白組トリ、5回目となる大トリを務める。「おふくろの子守唄」を歌唱することは封印していたが、このNHK紅白歌合戦で封印を解き、涙ながらに熱唱した。
2003年
「逢えて…横浜」は再デビュー曲「よこはま・たそがれ」以来となる横浜を題材にしたシティー・ポップスであり、最高位21位、登場週数37週、10万枚に迫る売上げを記録。
9月、構成と演出を自らが手懸けた「ライブコンサート」を日生劇場で興行。
2004年
3月、第54回芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を文化庁より受賞(受賞理由(原文をそのまま掲載):自身の構成、演出による「五木ひろしライブコンサート」(日生劇場、9月)において日本の歌謡界に多大な業績を残した古賀政男作品に取り組み、創唱者に敬意を表す一方、自身の個性や持ち味を発揮し存在を強く印象付けた。大衆歌謡を原点に、伝統の継承と現代性を追求し実践。常に意欲的であり、精力的な活動を続けている。)。
「アカシア挽歌/雪燃えて」は芸能生活40周年記念シングルとして両A面扱いで発売になり、最高位16位、登場週数35週、10万枚に迫る売上げを記録。
芸能生活40周年記念アルバム『おんなの絵本』は、演歌界を代表する十六人の作家陣が豪華に散りばめられていることで話題を集める。
『おんなの絵本』で第46回日本レコード大賞ベスト・アルバム賞を受賞。 授賞式では「冬の盆」と「アカシア挽歌」を披露。
第55回NHK紅白歌合戦では「雪燃えて」で12回目となる白組トリを務める。
2005年
「ふりむけば日本海」は芸名を頂戴した五木寛之と初めてコラボレーションしたことで話題を集め、最高位14位、登場週数52週、10万枚に迫る売上げを記録。
CDの売上げが不振に喘いでいる演歌・歌謡界の中にあって、コンスタントに10万枚程度の売上げ実績を収める。
5月、チャリティー・コンサートを熊本県南阿蘇村の野外劇場アスペクタで興行。
構成と演出を自らが手懸けた「美しき日々コンサート」を日本各地で興行。
地球の緑を次世代に継承するためのプロジェクト「Green Earth21」構想を計画し、実行委員長に就任。
2006年
京都の高瀬川を舞台に、自ら作曲を手懸けた艶歌「高瀬舟」は、最高位9位、登場週数44週、10万枚に迫る売上げを記録。 TOP10入りは「長良川艶歌/おはん」(1984/9/17付、最高位10位)以来、自身では21年7ケ月ぶり通算16作目で、初登場での達成は自身ではこれが初めて。 これまでの自身の最高初動順位は1976/2/19付「愛の始発」の15位で、歌手生活42年目で最高のスタートとなる。 又、この21年7ケ月ぶりのTOP10入りという記録は「アーティスト別シングルTOP10入りインターバル記録」でカーペンターズの22年1ケ月ぶりに次いで歴代第2位。 「アーティスト別シングルTOP10入りインターバル記録・邦楽アーティスト部門」では美空ひばりの「みだれ髪」の19年10ヶ月を上回る歴代第1位の記録で、18年4ヶ月ぶりに邦楽記録更新。 「アーティスト別シングルTOP10入り高齢記録・邦楽アーティスト部門」では58歳で、小田和正に次いで歴代第2位。
「高瀬舟」で第48回日本レコード大賞作曲賞を受賞。作曲家としても評価を得る。
2007年
2月、N響(NHK交響楽団)ポップスとのジョイント・コンサートを興行。 流行歌手としてはこれが初めて。自身にとって永年の夢であった“演歌とクラシックの共演”を果たし、嬉し涙を見せる。
3月、国立劇場公演を興行。歌手としてはこれが初めて。
「ゆめかぜ」は最高位18位、登場週数37週を記録。
10月、 飛騨・美濃観光大使を委嘱。
11月、紫綬褒章を受章。流行歌手としては島倉千代子以来のことである。
第58回NHK紅白歌合戦では「契り」で13回目となる白組トリ、6回目となる大トリを務める。 尚、「契り」は二度目の歌唱となるが、それは作詞家・阿久悠の追悼企画のためである。
2008年
アップフロントエージェンシーへ芸能プロダクション(マネジメント契約)を移籍。
ラヴ・ソング「この愛に死んでも」は最高位24位、登場週数22週を記録。
四ヶ月連続で五枚のシングルを発表。 その第一弾「橋場の渡し」は、“大江戸ロマン”をテーマに隅田川最古の渡しを描いたものであり、最高位19位を記録。
「テネシーワルツ」はパティ・ペイジ(1950年米国)と江利チエミ(1952年1月発売)をカヴァーしたジャズ・ソング(アメリカン・ポップス)であり、自身では初めての外国作品であるとともに、初めて二ヶ国語(英語/日本語)で交互に歌ったシングルとなる。
「雪が降る」はアダモが自作自演(1963年)したシャンソンをカヴァー。

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